毎度ありがとうございます!
大学1年生だった1年間、下宿生活を送ったことがある。
高3の9月には新潟の金融機関に就職が内定していたのを反故にして、
田中先生と親に無理言って行かせてもらった北海道函館市での大学生活だった。
下宿代は、当時でたしか1ヶ月5万5千円だったと思う。
平日の朝晩2食付で日曜日は食事が出なかった。
土曜日の夜はカレーかジンギスカンとメニューが決まっていた気がする。
高1からすでに実家を出て野球部寮で過ごしたものの、やはり食事の面を心配してか
オフクロが下宿でないと仕送りをしないと言い張り半ば強引に決めた大学斡旋の下宿屋だった。
その下宿屋は本館と別館の二棟があって、老夫婦がいるのが本館で、
その若息子夫婦がやっているのが、すぐ裏にある別館だ。
自分は、老夫婦のいる本館2階の階段を上がってすぐの201号室になった。
本館の住人は、全部で学生が5人。
自分の隣の202号室は室蘭から来た同期のナガオ。
203号室には函館高専の1コ年下の高専生。
204号室には短期大学に通う女子短大生。
そして1階の101号室には、すでに留年を繰り返して何歳かも分からない先輩がいた。
下宿生は風呂が付かなかったから男女が同居していたのかもしれないけど、
今考えると防犯もセキュリティもあったもんじゃないわけで。
洗濯機も1個しかなく、誰かが使っていれば次の人が洗濯機の前にカゴを置くルールだった。
風呂も銭湯が基本だけど、この頃はまだ車を持っていなかったから、近場のアパート暮らしの
同期に甘えてシャワーを借りていた気がする。
原チャリくらいないと生活に不便な丘の上の学生街で、ホンダの50CC「ダックス」を買った。
今もなお持っていたらゴリラやモンキーに次いでプレミアが付くであろう往年の名車だ。
大学4年間のなかで、一番大学に通った1年間だった(それでも出席率40%)ことを振り返っても、
大学1年生のときが最も充実していたことは間違いないと思う。
深夜の交通誘導いわゆる「棒振り」警備員のほかに、結婚式場のボーイや温泉旅館の布団敷きなど、
とにかくバイトバイトに明け暮れた毎日を送っていた。
特に温泉旅館の布団敷きのバイトは学生にはおいしくて、出勤と同時に社員食堂でメシを食って、
7階まである客室の1部屋1部屋の宿泊人数を確認して、ツアーバスで函館山の夜景を
見に行っている間に、2人1組になって布団を綺麗に敷いていく仕事だ。
呼吸を合わせてバッとシーツを広げ、上下同じように余白を折り曲げて布団の下に折り込むだけの
単純な作業ではあったけど、息の合わないヤツと組むと時間がかかって仕方がない。
枕カバーまでセットしてカーテンを閉めて1部屋がようやく完了だった。
すでにお客様のプライベート空間に合鍵を使って入室し、布団を敷くだけの単純作業だったけど、
脱いだばかりの服が散らかっていたり、かばんのチャックが開いていたりと、ちゃんとした
道徳観と使命感を持っていないと学生には少し危うい仕事だったのかなと思う。
そのせいか、今でも旅館に泊まるときには貴重品は絶対に持ち歩くか金庫にしまうし、
カバンやバックはできるだけ部屋の見にくい場所に置くクセがついてしまった。
(もちろん旅館宿泊が危ないという話ではありません。)
メシは食べれるし、仕事が終われば修学旅行客を装って風呂にも入ってこれたし、
貧乏学生には天国のようなアルバイトだったのは言うまでもないだろう。
そして1年間で小遣いや生活費で使った金額の他に50万円を貯めて、下宿生活に別れを告げた。
大学2年からは家賃4万5000円のアパート暮らしを始め、38万円で買ったマイカー持ちと
生活の自由度はMAXに変化していった。
親からの仕送りの金額は下宿生活と変わらないことを条件に説得したため、引越しと同時に
ガソリン代やアパートでの食費を稼ぐために、ますますアルバイトに没頭する生活になり、
大学3年と4年の2年間は、テスト以外ではほとんど講義を聴いたことがない。
テストは、意味のない言い回しで無駄に理屈っぽく「であるからして、こうなるであろう。」
的な論文調の文章を書いてなんとか乗り切っていたし、それでもダメなら直接教授に日本酒を
持って行って「先生、お願いしますよ~」と酒を酌み交わして追試で単位を獲得するという、
大学時代にすでに「癒着」という処世術も自然に身につけていた(笑
ある意味それだけ面倒見のいい大学だったし、心の広い教授が多かった古き良き時代だったと思う。
もしも大学時代に後悔というか、やり残したことがあるとすれば、何かしらの国家資格を
取っておくべきだったと、今でも心の底から思っている。
教員免許や会計士は、大学でしっかりと勉強しておかないと絶対に取れない資格でもある。
その職業になりたいかなりたくないか、就いたか就かないかではなく、大学に行かなければ
取れない資格を取っているという大学生活の証みたいなものが何もないのが心残りなのだ。
たしかに視野が広がり、たくさんの貴重な経験もさせてもらった。
大学に行かなければ知り合わなかった仲間もたくさんいるし、函館は第二の故郷だと思っている。
アルバイトの経験や、時間とお金の管理などすべてにおいて自分自身の自己管理が培われたのも、
大学の4年間だったというのは間違いないところでもある。
結果的には、やりたくないことはやらず、やりたいことだけやっていた自堕落な4年間だったかも
しれないけれど、人生において貴重な時間ではあったという話しだ。
4年間という時間の充実感と少しの後悔・・・
将来の自分の姿が見えるのならば、あの時あの時間に出来たことは他にもあった気がしてならない。
あの6畳一間の下宿生活は、まさに期待と不安とが入り混じった初々しい時間だったと言える。
あれから30年の時が経った今ても、入学式に着て行ったJプレスの紺色のブレザーは
今でも大切にクローゼットにしまってある。
もう絶対に着ることが出来ない細身のブレザーを見るたびに、いつになるかは分からないが、
また時間があれば大学時代の思い出話を回想してみたいと思う。
大学時代のレポートを思い出して今日は論文調に書いてみました。
先生、これでなんとか単位を、単位をお願いします(笑
大学1年生だった1年間、下宿生活を送ったことがある。
高3の9月には新潟の金融機関に就職が内定していたのを反故にして、
田中先生と親に無理言って行かせてもらった北海道函館市での大学生活だった。
下宿代は、当時でたしか1ヶ月5万5千円だったと思う。
平日の朝晩2食付で日曜日は食事が出なかった。
土曜日の夜はカレーかジンギスカンとメニューが決まっていた気がする。
高1からすでに実家を出て野球部寮で過ごしたものの、やはり食事の面を心配してか
オフクロが下宿でないと仕送りをしないと言い張り半ば強引に決めた大学斡旋の下宿屋だった。
その下宿屋は本館と別館の二棟があって、老夫婦がいるのが本館で、
その若息子夫婦がやっているのが、すぐ裏にある別館だ。
自分は、老夫婦のいる本館2階の階段を上がってすぐの201号室になった。
本館の住人は、全部で学生が5人。
自分の隣の202号室は室蘭から来た同期のナガオ。
203号室には函館高専の1コ年下の高専生。
204号室には短期大学に通う女子短大生。
そして1階の101号室には、すでに留年を繰り返して何歳かも分からない先輩がいた。
下宿生は風呂が付かなかったから男女が同居していたのかもしれないけど、
今考えると防犯もセキュリティもあったもんじゃないわけで。
洗濯機も1個しかなく、誰かが使っていれば次の人が洗濯機の前にカゴを置くルールだった。
風呂も銭湯が基本だけど、この頃はまだ車を持っていなかったから、近場のアパート暮らしの
同期に甘えてシャワーを借りていた気がする。
原チャリくらいないと生活に不便な丘の上の学生街で、ホンダの50CC「ダックス」を買った。
今もなお持っていたらゴリラやモンキーに次いでプレミアが付くであろう往年の名車だ。
大学4年間のなかで、一番大学に通った1年間だった(それでも出席率40%)ことを振り返っても、
大学1年生のときが最も充実していたことは間違いないと思う。
深夜の交通誘導いわゆる「棒振り」警備員のほかに、結婚式場のボーイや温泉旅館の布団敷きなど、
とにかくバイトバイトに明け暮れた毎日を送っていた。
特に温泉旅館の布団敷きのバイトは学生にはおいしくて、出勤と同時に社員食堂でメシを食って、
7階まである客室の1部屋1部屋の宿泊人数を確認して、ツアーバスで函館山の夜景を
見に行っている間に、2人1組になって布団を綺麗に敷いていく仕事だ。
呼吸を合わせてバッとシーツを広げ、上下同じように余白を折り曲げて布団の下に折り込むだけの
単純な作業ではあったけど、息の合わないヤツと組むと時間がかかって仕方がない。
枕カバーまでセットしてカーテンを閉めて1部屋がようやく完了だった。
すでにお客様のプライベート空間に合鍵を使って入室し、布団を敷くだけの単純作業だったけど、
脱いだばかりの服が散らかっていたり、かばんのチャックが開いていたりと、ちゃんとした
道徳観と使命感を持っていないと学生には少し危うい仕事だったのかなと思う。
そのせいか、今でも旅館に泊まるときには貴重品は絶対に持ち歩くか金庫にしまうし、
カバンやバックはできるだけ部屋の見にくい場所に置くクセがついてしまった。
(もちろん旅館宿泊が危ないという話ではありません。)
メシは食べれるし、仕事が終われば修学旅行客を装って風呂にも入ってこれたし、
貧乏学生には天国のようなアルバイトだったのは言うまでもないだろう。
そして1年間で小遣いや生活費で使った金額の他に50万円を貯めて、下宿生活に別れを告げた。
大学2年からは家賃4万5000円のアパート暮らしを始め、38万円で買ったマイカー持ちと
生活の自由度はMAXに変化していった。
親からの仕送りの金額は下宿生活と変わらないことを条件に説得したため、引越しと同時に
ガソリン代やアパートでの食費を稼ぐために、ますますアルバイトに没頭する生活になり、
大学3年と4年の2年間は、テスト以外ではほとんど講義を聴いたことがない。
テストは、意味のない言い回しで無駄に理屈っぽく「であるからして、こうなるであろう。」
的な論文調の文章を書いてなんとか乗り切っていたし、それでもダメなら直接教授に日本酒を
持って行って「先生、お願いしますよ~」と酒を酌み交わして追試で単位を獲得するという、
大学時代にすでに「癒着」という処世術も自然に身につけていた(笑
ある意味それだけ面倒見のいい大学だったし、心の広い教授が多かった古き良き時代だったと思う。
もしも大学時代に後悔というか、やり残したことがあるとすれば、何かしらの国家資格を
取っておくべきだったと、今でも心の底から思っている。
教員免許や会計士は、大学でしっかりと勉強しておかないと絶対に取れない資格でもある。
その職業になりたいかなりたくないか、就いたか就かないかではなく、大学に行かなければ
取れない資格を取っているという大学生活の証みたいなものが何もないのが心残りなのだ。
たしかに視野が広がり、たくさんの貴重な経験もさせてもらった。
大学に行かなければ知り合わなかった仲間もたくさんいるし、函館は第二の故郷だと思っている。
アルバイトの経験や、時間とお金の管理などすべてにおいて自分自身の自己管理が培われたのも、
大学の4年間だったというのは間違いないところでもある。
結果的には、やりたくないことはやらず、やりたいことだけやっていた自堕落な4年間だったかも
しれないけれど、人生において貴重な時間ではあったという話しだ。
4年間という時間の充実感と少しの後悔・・・
将来の自分の姿が見えるのならば、あの時あの時間に出来たことは他にもあった気がしてならない。
あの6畳一間の下宿生活は、まさに期待と不安とが入り混じった初々しい時間だったと言える。
あれから30年の時が経った今ても、入学式に着て行ったJプレスの紺色のブレザーは
今でも大切にクローゼットにしまってある。
もう絶対に着ることが出来ない細身のブレザーを見るたびに、いつになるかは分からないが、
また時間があれば大学時代の思い出話を回想してみたいと思う。
大学時代のレポートを思い出して今日は論文調に書いてみました。
先生、これでなんとか単位を、単位をお願いします(笑
コメント
1. 無題
2. >ジュニアさん
今でも着れるというのが羨ましいかぎりです。
おそらく自分のブレザーは息子のものになるでしょう。
それはそれで、感慨深いものがありますけどね。
もう一度着れるようにダイエット頑張ってみますか。
ダイエット指南よろしくお願いしますm(_ _)m