毎度ありがとうございます!
3月11日。
日本人なら忘れることの出来ない日です。
死者15854人
行方不明者3155人
一瞬にして何気ない日常から、明日が、未来が、光がなくなった、無念の命です。
どの命も、生きるために最後の最後までもがいた尊い命です。
これまで、あの大震災を語るときに、影響の少なかった鶴岡に住む自分は、
命をなくす「死」ということよりも、自宅の崩壊や仕事を失う「物損」のイメージが強かったんです。
家がなくなったらどうしよう。
仕事がなくなったらどうしよう。
正直、本当に都合よく、そんなことばっかり考えてました。
自分が、家族が、一瞬にして死ぬという現実を考えられなかったし、
考えてみても具体的にイメージできなかったんですよね。
申し訳ないとは思うけれども、看護や介護の現場で日常から「死」というものに触れる仕事に
従事している方々でないと、やっぱり身内の「死」でしか実感ができないでいたのかもしれません。
母は1月28日に突然、末期の胆嚢ガンと診断され
「余命3ヶ月、早ければ1ヶ月もありえる。」と告知されました。
元気で健康だけが自慢の活発で活動的な母だったんです。
ある日突然、「あなたの大切な人は、あと数ヶ月で死ぬ。」と言われたら、あなたには何ができますか。
「本人には告知しない。」と兄姉で決め、本人には悟られないように冷静さを装っていました。
毎日、昼食時間を理由に顔を出して、「今日の天気はどうだ。」とか「誰々が見舞いに来た。」とか
そんな話しか出来ずにいた1ヶ月だったんです。
今まで本当に、ありがとう。
いつも心配してくれて、ありがとう。
産んでくれて、ありがとう。
ちゃんと意識のあるうちに、はっきりと伝えることもできませんでした。
本人に告知するべきだったのか、否や、その答えは今でも自問自答しています。
どんなに泣き、取り乱しても、自分の死を受け入れた先に、
最後に、逢いたい人はいなかったのだろうか。
最後に、伝えたいことはなかったのだろうか。
最後に、食べたいものはなかったのだろうか。
最後に、聞きたい唄はなかったのだろうか。
最後に、見たいところはなかったのだろうか・・・。
どうしてあげることが、最善の方法だったのか、今もって分かりません。
最後の48時間を一緒に過ごし、強く手を握り締め天国に旅立った母に、
聞きたくても、もう聞くことは出来ないんです。
震災で亡くなった方々と重ね合わせるには、あまりにも軽率かもしれないけれど、
大切な家族を亡くした遺族の悲しみは、みな同じだと思います。
「揺れだっけのぉ~。オメは大丈夫だろ。エミコさ連絡つがねなや~。困ったのぉ~」
去年の震災直後に電話で話した母は、やっぱり自分や仙台にいる姉のことを心配してくれてました。
そんな日常が続くことが、当たり前だと思ってました。
照れやカッコ悪さが邪魔をして、素直に言葉をかけれなかったり、手を差し伸べれなかったり、
後悔しても遅いことばかりなことに今頃になって気付かされます。
大きなことは出来なくて当たり前なんです。
近くにいる大切な家族に触れ合い、語りかけること、それだけでいいんです。
そんな想いで、3月11日のあの時間に黙祷を捧げました。
悲しみはまだまだ癒えないけれど、明日に向って力強く歩いていきます。
そして、また明日から気合いを入れて、頑張ります!
3月11日。
日本人なら忘れることの出来ない日です。
死者15854人
行方不明者3155人
一瞬にして何気ない日常から、明日が、未来が、光がなくなった、無念の命です。
どの命も、生きるために最後の最後までもがいた尊い命です。
これまで、あの大震災を語るときに、影響の少なかった鶴岡に住む自分は、
命をなくす「死」ということよりも、自宅の崩壊や仕事を失う「物損」のイメージが強かったんです。
家がなくなったらどうしよう。
仕事がなくなったらどうしよう。
正直、本当に都合よく、そんなことばっかり考えてました。
自分が、家族が、一瞬にして死ぬという現実を考えられなかったし、
考えてみても具体的にイメージできなかったんですよね。
申し訳ないとは思うけれども、看護や介護の現場で日常から「死」というものに触れる仕事に
従事している方々でないと、やっぱり身内の「死」でしか実感ができないでいたのかもしれません。
母は1月28日に突然、末期の胆嚢ガンと診断され
「余命3ヶ月、早ければ1ヶ月もありえる。」と告知されました。
元気で健康だけが自慢の活発で活動的な母だったんです。
ある日突然、「あなたの大切な人は、あと数ヶ月で死ぬ。」と言われたら、あなたには何ができますか。
「本人には告知しない。」と兄姉で決め、本人には悟られないように冷静さを装っていました。
毎日、昼食時間を理由に顔を出して、「今日の天気はどうだ。」とか「誰々が見舞いに来た。」とか
そんな話しか出来ずにいた1ヶ月だったんです。
今まで本当に、ありがとう。
いつも心配してくれて、ありがとう。
産んでくれて、ありがとう。
ちゃんと意識のあるうちに、はっきりと伝えることもできませんでした。
本人に告知するべきだったのか、否や、その答えは今でも自問自答しています。
どんなに泣き、取り乱しても、自分の死を受け入れた先に、
最後に、逢いたい人はいなかったのだろうか。
最後に、伝えたいことはなかったのだろうか。
最後に、食べたいものはなかったのだろうか。
最後に、聞きたい唄はなかったのだろうか。
最後に、見たいところはなかったのだろうか・・・。
どうしてあげることが、最善の方法だったのか、今もって分かりません。
最後の48時間を一緒に過ごし、強く手を握り締め天国に旅立った母に、
聞きたくても、もう聞くことは出来ないんです。
震災で亡くなった方々と重ね合わせるには、あまりにも軽率かもしれないけれど、
大切な家族を亡くした遺族の悲しみは、みな同じだと思います。
「揺れだっけのぉ~。オメは大丈夫だろ。エミコさ連絡つがねなや~。困ったのぉ~」
去年の震災直後に電話で話した母は、やっぱり自分や仙台にいる姉のことを心配してくれてました。
そんな日常が続くことが、当たり前だと思ってました。
照れやカッコ悪さが邪魔をして、素直に言葉をかけれなかったり、手を差し伸べれなかったり、
後悔しても遅いことばかりなことに今頃になって気付かされます。
大きなことは出来なくて当たり前なんです。
近くにいる大切な家族に触れ合い、語りかけること、それだけでいいんです。
そんな想いで、3月11日のあの時間に黙祷を捧げました。
悲しみはまだまだ癒えないけれど、明日に向って力強く歩いていきます。
そして、また明日から気合いを入れて、頑張ります!
コメント
1. 無題
言葉がありません。。。
今頃になり申し訳ありません。
心からお悔み申し上げます。。。
ウチの親父も、2003年10月26日、末期の肺癌で自宅で逝きました。
最期に、握っていた左手が、次第に冷たく固くなっていくのを、この左手がまだ覚えております。
親父にも告知はしませんでしたが、恐らく気づいていたんだろうと思います。
「俺の“期限”はいつなんだろうと思ってよ」という言葉が忘れられません。
なるべく後悔の少ないようにと、一刻一刻迫る“その時”を考え、分刻みで行動していたつもりでしたが、全くもって時間が足りず…
親父が逝って8年が過ぎましたが、未だに後悔は残っております。
ただ。この“想い”だけが、せめてもの罪滅ぼしと、日々、手を合わせる次第です。
なんだか。
七七日をまだ迎えておられない、やんちゃさんのお母さんは、ご自分の初彼岸にもかかわらず、お彼岸で帰って来られた沢山の仏様の接待とかしてそうじゃないですか?
お会いしたことはないですが、やんちゃさんのお母さんのイメージで…スミマセン!!
魂は永遠です。
今までは、会いに行かなければ会えなかったお母さんは、もうずっとそばにおられます。
怒ってくれる人が減った分、
恥ずかしくない生き方をしなくっちゃ、と思います。
やんちゃさん、どうぞ無理だけはしないで。
どうぞ、これからもお母さんの誇る息子で♪
想い出は宝物です☆^^b
長くなってスミマセン!!
合掌。。。
2. >サクラ嬢さん
あらめて・・・
親には最後までいろんな事を教わるものなんだなと痛感しています。
その時は、ある日突然やってきます。
「エンディングノート」「エンディングプラン」
カッコいい言葉に並び替えられてはいるものの、
最後にどう過ごすか。
その時まで、どう生きるのか。
親の最期を自分に置き換えて、自分なりに思うところはあります。
命の尊さ、消え行く儚さ・・・。
親から授かった命で、今を一生懸命に生き抜くことこそが最大の親孝行なのかもしれません。
>怒ってくれる人が減った分、
恥ずかしくない生き方をしなくっちゃ
そう思うと寂しいですけど、そうですよね。。。
もっともっと喧嘩したかったですけど、仕方ありません。
賑やかな人でしたから、あの世に辿り着いたらヤンヤヤンヤの大喝采で
迎えられることでしょう(笑
そうなるためにも、今は七日ごとの供養に余念がありません。
そのうち、また一杯やりましょう。
コメント、ありがとうございました。