"新卒時代"カテゴリーの記事一覧
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毎度ありがとうございます!
引き続きの初めてシリーズで。
大学進学した函館には「吉野家」がなかっため、はっきりとした牛丼デビューは新卒時代の大阪でした。
実は、仲間と遊びに行ったすすきので、酔っぱらって深夜に食ったような記憶があるものの、
ちゃんと「吉野家」と認識して作法を教わったのは、やっぱり大阪ということになりますかね。
証券会社の本社があった北浜で、昼休みになるとそこら中から証券マンが溢れ出てくるなか、
同期の奴らに連れて行かれて、その作法を教わったんです。
「つゆだく」「ねぎだく」なんて注文の仕方も教えてもらいました。
仲の良かったヤマヤの影響で、つゆだく・玉子・味噌汁に
七味どっさりが定番だったせいか、その後もずっとその食べ方でしか
食えない身体になってしまいました(笑
「すき家」の牛丼は玉子をかけなくても食えるのに、
「吉野家」は玉子をかけないと食えないんですよ。
注文してから出てくるまでのあのスピードには、本当にカルチャーショックを受けたもんです。
「どんぶりに入れて、作り置きしてんじゃねーか?」って本気で思ってましたもんね。
あの、他人と向かい合って座るカウンターにも、どこか照れ臭くて目のやり場に困ってましたし。
当時はお客の目の前に透明な引き出し(ショーケース)があって、
中にあるお新香やサラダを勝手に取り出して、会計も目の前で精算するシステムでしたよね。
一杯300円くらいだったのかな、よく覚えてないけど。
大阪の街で、初任給が出るまで随分とお世話になりました。
鶴岡という田舎に育ったおかげで、ファーストフードやジャンクフードデビューは遅咲きでしたけど、
その分、大人になってからの感動が半端なかったわけです(笑
初めて食べた「ロッテリア」のリブサンドにも感動したし、
最初は怒りさえ覚えた「天下一品ラーメン」も、今や大好物になってしまったし。。
さーて、一週間の締めくくりの土曜日。
気合い入れて、行ってきまーす!!
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毎度ありがとうございます!
同期入社の中でも、いち早くノルマを達成し顧客と普通に株の話をしているタケダ以外は、
まだ誰もノルマを達成できずに、毎日が暗中模索状態の日々が続いていました。
ある日の昼休みに同期のヤマヤと2人で、いつものようにランチにを食べに歩いてたんです。
そしたら、そのヤマヤが急に妙な事を言い出すんですよ。
「あのよ。タケちゃんて、いつも誰と電話してんだろうな。」
「親父の知り合いとかって言ってたじゃん。」
「でもよ。おれらがテレアポしてる間、あんなにチョコチョコ電話してそんなに話す事あるか?」
「んー、知らねーよ。よっぽど金と暇のある人なんじゃねーの。」
「・・・。」
営業部では、4人づつ向かい合わせで座ってるんですけど、自分の向かいがヤマヤで、
そのとなりがタケダだったんです。
その日の午後は、タケダを含む数人が外回りに出かけ、
営業部には自分とヤマヤとオオタケが残っているだけでした。
その時、いきなり向かいに座るヤマヤが隣りのタケダの電話のボタンを押して叫んだんですよ。
「おい!イシカワ。ヤベーよ。」
「あー。何がよ?」
「ちょっと、これ見てみ。」
「何が?」
当時は各自の机の上に直通のビジネスホンがあって、名刺の番号もそれぞれ末尾が違っていたんです。
もちろん営業部の代表電話もかかってきたら取れますけど、逆に外線への発信は、
すべて0発信(ゼロ)しないと通話ができない仕組みだったんですね。
ナンバーディスプレイなんてない時代でしたけど、
発信履歴だけは「日付」「時間」「通話時間」が表示される電話機でした。
ヤマヤが指差すタケダの電話は、発信履歴すべてが、頭に0の付かない番号ばかりだったんです。
「ん、なんだこれ?どういうことよ?」
「だからよ、タケダは一人で演技してるってことだよ。」
「はあ?なんで?」
「知らねーけど、一人で勝手にしゃべって演技してるってことじゃん。」
「・・・。」
「けっ。」
学生時代には一言も話した事はなかったんですけど、同じ大学から入社して、
配属された支店も同じということから、やっぱり仲間意識は強かったんです。
「ヤマヤ。とりあえずこの事は、誰にも言うなよ。」
「おぅ、わかった。しっかし、あいつには本当に呆れたな。」
そのあとも、同期がテレアポで撃沈されてる間も、
「ええ。今日は2円安ですね。ここはもう少し様子を見てみましょうか。」
なんて話してましたけど、タケダがトイレに立った隙にヤマヤがディスプレイをチェックすると
「177」なんて天気予報に向って話してた事もありました。
実は、自分達がタケダの一人芝居に気付く前から、支店長はわかっていたそうなんです。
自分達が、退社したあとに電話機チェックするのが支店長の日課になってたらしく・・・。
早い段階から、肉親から協力してもらう新入社員は大体この手を使うんだそうです。
「結果がすぐに出ないツライ業務に耐えられないヤツは、本当の証券マンにはなれない。」
というのが支店長の持論だそうで・・・。
しばらくして、そのあとの新規がまったく獲れず、支店長に追い込まれたタケダは会社を辞めました。
今、タケダは東京都議の秘書をやっているそうです。
21歳、春。
みな、本当に明日が見えなくて、もがき苦しんでいた頃です。
希望職種についても、必ずしもやりがいがあるとは限りませんし、その時には分からないものです。
春になるにつれ、街に「新卒」という言葉が聞こえはじめると、あの頃の辛かった毎日を思い出します。
全ての仕事に通じることだと思うんですけど、
答えを先に求めるよりも、その答えが出るまでの過程が大切なんですね。
今日の努力が、未来に必ず繋がると信じています。
今週も頑張りましょう!!
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毎度ありがとうございます!
社会人1年生、東京での証券会社時代の話でも。
バブル最終期の平成2年、某証券会社の兜町支店に配属された新人は自分を含めて8名、
全て大卒の営業職志望者のみだったんです。
営業第一課と第二課に分かれてはいるものの、新人8人の机は向い合わせで隔離されてました。
営業部では、全銘柄の動向の分かる株価ボードの下で、支店長はじめ全営業マンが
9時の前場が始まると同時にバンバン電話をかけて「売り」や「買い」の注文をとるその光景は、
殺気だった異常な熱気が立ち込めていたものです。
我々新人には、まだそんな株の話をする顧客など一人もいるはずもなく、
「まずは、その辺で貯蓄モン(元本保証の定期預金みたいなもの)でも、売って来い。」
というのが、当面の業務命令だったんです。
でも、その貯蓄モンですらも、なかなか飛び込み営業では獲得できず、
新人は毎朝の営業会議で、こっぴどく追い込まれていたんですね。
外に出て飛び込みする以外に、電話帳の端から端まで無作為に電話をかけてアプローチする
「テレアポDay」なる曜日も決められていて、その日は朝から晩までひたすら電話をかけるわけです。
8割がた「〇〇証券のイシカワと申します。恐れ入りますが・・・」
大体このあたりで「ガチャン!」と切られます。
名前から先を話すことも出来ないんですよね。
その時間わずか約30秒くらいですから、次から次とかけまくって、
1日に300件なんて日もありました。
そんな同期全員が玉砕されているなか、自分と同じ大学から入社したタケダ(仮名)
だけは、「ええ、今日は3円高です。△△製作所なんかも面白いと思いますよ。」
なんて、一丁前にベテラン証券マンみたいな電話で誰かと話をしてるんですよ。
聞けば、父親の知人に懇意にしてもらっているそうで、近いうちに株契約も約束されているそうなんです。
毎日、毎日、支店長に容赦ない罵声を浴びせられ、明日が見えない無力感の中で、
タケちゃんの外線電話は、まさに同期の憧れでもあったわけです。
「いつか、あんな電話を顧客としてみたい。」
そうは思うものの、支店長からも「お前ら、少しはタケダのこと見習って、今日こそ契約、取って来い。」
なんて、むしろ追い込まれる要因でもあったんですけどね。
ひたすら、いつか自分にもお客様が出来ると信じて、くる日もくる日も、玉砕されてました。
そんな、ある日のこと・・・。
あの事件が発覚したんです。
つづく。
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毎度ありがとうございます!
同級生でもあり、日本酒の仕入れでもお世話になってる「佐野屋」店主サノのブログのおかげで
急に訪問者数が増えた当ブログですが、いつもの感じでネタがあれば書く!無ければ書かない
お気楽なスタイルでお届けしております。。。
で、今日もまた書くわけでして・・・。
これは社会人1年生、東京で証券会社に勤めていた時の話しです。
当時、新人社員のノルマは、リスクの少ない「外国ドル国債」を毎月100万円以上売るか、
他の証券会社に預けている株券を毎月500万円分以上切り替えてくるか、でした。
ローラー作戦でしらみつぶしにチャイムを押しても誰も相手にしてくれず、都会の厳しさを痛感していた
そんな時、たまたま三軒茶屋の「マツモトさん」という方のお宅にお伺いしました。
木造平屋の長屋のようなお宅の玄関まで、招き入れてくれた奥様は65歳ご主人は70歳でした。
突然の飛び込み訪問にも、「ウチはごらんのようにボロい家で、あなたに預けるお金も株もないんですよ。
しかも主人が病気で伏せておりまして・・・」と、玄関先で申し訳なさそうにお盆を抱えながら
一杯の熱いお茶を出して下さったんです。
部屋の奥からはご主人のゼコゼコと苦しそうに咳き込む声と、シューシューと機械音が聞こえてました。
「ウチにもあなたみたいな孫がいるんですよ。どうぞ頑張って下さいね」なんて言われて
東京に来て、初めて他人に優しくしてもらった気がしました。
泣きそうになるのをこらえながら、その一杯のお茶をそそくさと頂き
「ありがとうございます・・・頑張ります」と言った声は潤んでいたと思う。
東京であれほど深くお辞儀をしたのは、後にも先にもあれが最後だった。
名刺を受け取ってくれた事、お茶を出してくれた事、話を聞いてくれた事、
そんな当たり前のような事が、あのときは本当にうれしかった。
その後、支店長から「ノルマ達成できねぇヤツは、親でも兄弟でも何でもいいから、
金預かって来い!」という毎日の説教に我慢できずに会社を辞めるんですけど、
その半年後・・・。
その頃、北海道にいた自分に同期入社のヤマヤから電話があって、
「三軒茶屋のマツモトさんて方から、お前あてに電話があってよ。ご主人が亡くなって
遺産の中から株券出てきたから、お前に管理お願いしたかったんだってよ。」
「もう辞めたって言ったか?」
「うん。そう言ったらすごく残念がってた。」
「そっかぁ、たった1回しか行ってないのに、よく憶えておいてくれたなー。何でオレなんだろ?」
「なんか気になってお前の名刺、とって置いてくれたんだってよ、好青年だって。」
「ふーん・・・。で、いくら分?」
「それがよ、6000万。」
「ろ、ロ・ク・セ・ン・マ・ン!」
「うん。オレ担当になってよ。今オレ、ダントツで同期の営業トップだぜ。助かったわ。じゃあな」
「・・・ツーツー。」
すべて実話です。
金額にもビックリしたんですけど、たった1回しか行ってない自分を心配してくれて
改めて電話をくれたマツモトの奥さんの優しさには2度救われました。
ご挨拶もせず東京を後にしました。申し訳ありません・・・。
そして・・・ありがとうございました。
あれから、20年・・・。
まだご健在でしょうか。。。
あなたからの優しさは、これからも忘れないでしょう。