毎度ありがとうございます!
朝から残念な報告をせねばなりません。
鶴商学園野球部が初めて甲子園に出場した際に部長を務めて頂いた小山田英一先生が
16日、ご自宅のある千葉県でお亡くなりになりました。
享年66歳。
早すぎる旅立ちです。
昭和53年の甲子園初出場、そして翌年春のセンバツ出場と鶴岡東野球部を語る上で
田中先生・茂木先生とともに創生期の鶴商野球部を支えてくださり、多大なるご尽力を賜りました。
自分が入学した頃にはすでにソフトボール部顧問でしたが、野球部同様に女子ソフト部員にも
熱く厳しい指導をされる熱血先生として深い印象があります。
OB会にも幾度となく気さくに出席していただいてご挨拶して頂きました。
奇しくも、今OB会では「鶴岡東高校野球部創部50周年記念誌」の発行に向けて準備を進めており
小山田先生のご活躍や当時のご指導を掘り下げて取材・記事にしようとしていた矢先の出来事でした。
体調が芳しくなく入院されていたとはお聞きしていましたが、こんなにも早く突然お亡くなりに
なるとは夢にも思っていませんでした。
自分が現役時代には、あまりお話しする機会はなかったんですけど、
自分にとって絶対に忘れられない話があります。
自分がOB会事務局を引き受けてOBだけで結成した「鶴商学園倶楽部」の追加加入メンバーが
多くなり、ユニフォームの数が足りず困っていた際に、その昔、ソフトボール部も野球部と同じ
縦じまのユニフォームを着ていたというのを聞いて、ある日突然職員室までお邪魔して
小山田先生に「ソフト部の縦じまがあったら是非譲って下さい!」と直接交渉して
譲って頂いた日のことを思い出します。
野球部でもよく知らない、いつの年代の誰かも分からないヤツがある日突然やって来て、
「ソフト部のユニフォームをくれ。」なんて突拍子もないお願いをしたのにもかかわらず、
「鶴商学園倶楽部の趣旨は分かった。このまま倉庫に置いておいても仕方ないから使ってくれる
んだったら全部持っていけ。それで全国大会に行ってくれれば嬉しいけどなぁ。」
と、快く10着くらいを譲って頂いたんですよね。
身体の小さいメンバーにはそのまま着させて、身体の大きいユニフォームが着れない奴らの
パッツンパッツンのユニフォームにはサイズ補正用の生地として有効活用させてもらいました。
あの縦じまのユニフォームをもう一度着たくて、学園倶楽部に入りたいという若いOBたちを
断ることなくみな入部させることができたのも、小山田先生の優しさと良きご理解があったから
だと今でも思っています。
今のOB会の繁栄に一役買ってくれたのが学園倶楽部のメンバーたちだとするならば、
その橋渡しというか繋がりを途切れさせずに継続させてくれたのは小山田先生のおかげと
いうことになるでしょう。
来年1月の50周年記念式典には是非ご出席頂いて、あの時のお礼とその後の学園倶楽部の
全国大会出場の話しも聞いていただきたかったです。
偉大なる恩師をまたひとり失いました。
30年ぶりの甲子園を決めた年には田中先生が、創部50周年の年には小山田先生が
その節目をOBたちと一緒にお祝いすることなく、みな天国へと旅立っていきました。
寂しいかぎりです。
本当にお世話になりました。
心よりご冥福をお祈りいたします。
合掌
朝から残念な報告をせねばなりません。
鶴商学園野球部が初めて甲子園に出場した際に部長を務めて頂いた小山田英一先生が
16日、ご自宅のある千葉県でお亡くなりになりました。
享年66歳。
早すぎる旅立ちです。
昭和53年の甲子園初出場、そして翌年春のセンバツ出場と鶴岡東野球部を語る上で
田中先生・茂木先生とともに創生期の鶴商野球部を支えてくださり、多大なるご尽力を賜りました。
自分が入学した頃にはすでにソフトボール部顧問でしたが、野球部同様に女子ソフト部員にも
熱く厳しい指導をされる熱血先生として深い印象があります。
OB会にも幾度となく気さくに出席していただいてご挨拶して頂きました。
奇しくも、今OB会では「鶴岡東高校野球部創部50周年記念誌」の発行に向けて準備を進めており
小山田先生のご活躍や当時のご指導を掘り下げて取材・記事にしようとしていた矢先の出来事でした。
体調が芳しくなく入院されていたとはお聞きしていましたが、こんなにも早く突然お亡くなりに
なるとは夢にも思っていませんでした。
自分が現役時代には、あまりお話しする機会はなかったんですけど、
自分にとって絶対に忘れられない話があります。
自分がOB会事務局を引き受けてOBだけで結成した「鶴商学園倶楽部」の追加加入メンバーが
多くなり、ユニフォームの数が足りず困っていた際に、その昔、ソフトボール部も野球部と同じ
縦じまのユニフォームを着ていたというのを聞いて、ある日突然職員室までお邪魔して
小山田先生に「ソフト部の縦じまがあったら是非譲って下さい!」と直接交渉して
譲って頂いた日のことを思い出します。
野球部でもよく知らない、いつの年代の誰かも分からないヤツがある日突然やって来て、
「ソフト部のユニフォームをくれ。」なんて突拍子もないお願いをしたのにもかかわらず、
「鶴商学園倶楽部の趣旨は分かった。このまま倉庫に置いておいても仕方ないから使ってくれる
んだったら全部持っていけ。それで全国大会に行ってくれれば嬉しいけどなぁ。」
と、快く10着くらいを譲って頂いたんですよね。
身体の小さいメンバーにはそのまま着させて、身体の大きいユニフォームが着れない奴らの
パッツンパッツンのユニフォームにはサイズ補正用の生地として有効活用させてもらいました。
あの縦じまのユニフォームをもう一度着たくて、学園倶楽部に入りたいという若いOBたちを
断ることなくみな入部させることができたのも、小山田先生の優しさと良きご理解があったから
だと今でも思っています。
今のOB会の繁栄に一役買ってくれたのが学園倶楽部のメンバーたちだとするならば、
その橋渡しというか繋がりを途切れさせずに継続させてくれたのは小山田先生のおかげと
いうことになるでしょう。
来年1月の50周年記念式典には是非ご出席頂いて、あの時のお礼とその後の学園倶楽部の
全国大会出場の話しも聞いていただきたかったです。
偉大なる恩師をまたひとり失いました。
30年ぶりの甲子園を決めた年には田中先生が、創部50周年の年には小山田先生が
その節目をOBたちと一緒にお祝いすることなく、みな天国へと旅立っていきました。
寂しいかぎりです。
本当にお世話になりました。
心よりご冥福をお祈りいたします。
合掌
コメント