"新卒時代"カテゴリーの記事一覧
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毎度ありがとうございます!
早くも今日で1月も終わりです。
こんな調子で一日一日が過ぎていくんですから、一年なんてあっという間ですし、
5年10年なんてついこの間のような感覚なのも納得です。
最近は、テレビで強盗殺人事件の話しが連日報道されています。
そしてその事件のきっかけとなったとされる「名簿」と言われる個人情報データ。
今から30年以上前、自分が社会人1年生の証券マン時代に東京の神田にあった名簿屋に
営業部の先輩に連れられて行ったことがあります。
当時はまだ個人情報保護法が施行される前のゆるい時代でしたけど、なんでこんなことまで分かるの?
というくらいのカテゴリーに分類され、もの凄い量の名簿があったのを覚えています。
高校の卒業アルバムや大学の同窓会名簿はもちろん、高額納税者名簿、マンションオーナー名簿、
年商〇〇以上の企業の社長の名簿などから、フェラーリ所有者名簿とか新人看護師名簿とか、
〇〇年度調理師免許合格者名簿とか、海外旅行希望者名簿とか何に使うのか不思議な名簿まで
ありとあらゆるジャンルの名簿が閲覧できたんですよね。
なかにはアダルトグッズ購入者名簿みたいな怪しいリストもあったりして、
名前や住所や電話番号が記載されていたりして、ただただ驚いた記憶があります。
証券マン時代は高額納税者に狙いを定めてテレアポやDMを仕掛けていってたわけですけど、
電話口でよく「なんでウチの電話番号を知ってるんですか?」と不審がられることも多かったです。
今は個人情報保護法でそんなことは絶対にないと思いますけど、昔は懸賞や応募ハガキから
個人情報を抜き取られることが多かったと聞かされていました。
例えば、むかしばなし(個人情報保護法施行前)ですけど、
例えば「やきとりを食って豪華な賞品をゲットしよう!」という懸賞があったとします。
あくまでも例え話ですよ。
1万円分のレシートを貼って応募できるのはA賞の海外旅行。
5千円分のレシートを貼って応募できるのはB賞の国内旅行。
厳正なる抽選がどこで行われているのかわかりませんけど、抽選が終わった後の応募はがきって
あなたが旅行会社の営業だとしたら喉から手が出るほど欲しくないですか?
これがA賞が原付バイク、B賞が自動アシスト自転車だとしたら、その商品を欲しいという人の
応募ハガキ(名簿)があれば、その名簿を誰が欲しいかは容易に想像がつくでしょう。
そういうあらゆるジャンルの名簿があるのを実際にこの目で見てきましたし、
当時は自分もそこで入手した名簿を使って営業をかけていたのも事実です。
今は名簿屋に行くこともありまんし、そんなことはないと思いますけどね。
函館時代に、現金10万円が当たるという何かのキャンペーンに応募したことがあって、
その時の応募用紙に当時住んでいたアパートの「レジデンス〇〇B棟102」と書いたつもりが
字が汚くてBが離れて13と認識したんでしょうね。
しばらくしてから、海外のロトが当たりました!すぐに手続きしてください!というDMが
ジャンジャン届くようになって、その宛先のすべてが「13棟102」で届くんですよ。
金が欲しいヤツ、10万円欲しいヤツ名簿に記載されたんでしょう(笑
当時は競馬にもハマっていた頃で、いろんな競馬のキャンペーンに応募していたこともあって
ある時から「一口馬主に興味ありませんか?」というDMばかり届くようになったこともあります。
何を言いたいかというと、自らが自分の情報を渡してしまう危険性が
実は今でもあるんじゃないかということなんです。
世の中には、懸賞や応募キャンペーンを趣味にされている方や、楽しんでいらっしゃる方も
多くいるのは分かってるんですけど、自分は30年前のあの名簿屋の光景がトラウマになっていて、
あんまりそういうの信用してないんですよね。
流れてくる回転すしにイタズラしたり、煽り運転で威嚇したり、普通じゃない人の思考は
我われには理解不能なわけですからね。
こんな名簿をなにに使うのと思っていても、実際にそういうものがきっかけとなって事件が
起きたりするのも事実なわけですし。
テレビでは朝から「ルフィ」の話題ばかりだったんで、昔のことを思い出しました。
そういえば「裏ビデオ購入者名簿」なんてのもあったなぁ。
タ〇シくん、気を付けてね(笑
ではまた。
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毎度ありがとうございます!
今朝起きてすぐにパソコンに向かって作業していたら、明らかに肌寒いと感じるんですよね。
半袖からロンTへ、ハーフパンツからジャージへと切り替えるタイミングです。
何かを切り替えるタイミングというか、切り替わった直後の感覚というか感触というか、
言葉では上手く表せない「その瞬間」というものが結構好きだったりします。
タオルケット一枚で寝ていたものが羽毛布団をかけた瞬間とか、
新しい車を購入してエンジンをかけた瞬間とか、
秋用のスエードブーツに足を入れた瞬間とか、
新しいメニューをカウンターに並べた時とか・・・
そう考えると、大学生から社会人になるタイミングなんかもそうだったのかもしれません。
21才の春。
3年間住んだ函館のアパートを引き払い、本社のある大阪に入る直前まで鶴岡で過ごしていました。
前にも書いたように、学生アルバイトも数多くやりながら、働く先々で可愛がってもらい、
学生なのにワンランク上の責任ある仕事を任せてもらったりして、社会人としての適応力というか
証券マンとしてやっていくことへの根拠のない「自信」があったんですよね。
根拠のない「自信」、それはすなわち「過信」となるわけですけど、この時に気づくはずもありません。
当時の学生の就職は「野球部」「応援団」「ラグビー部」からいいところに決まる、
みたいな世間の雰囲気があって、体育会系のサークル活動をやっていたわけでもないのに、
高校時代のおつりとアルバイトの経験が活きたのか、証券会社に一発で内定が決まったんです。
高校は商業科、大学も商学部商学科、そして兄は銀行員でしたから、何となく金融系に進もうと
漠然と肌で思っていたことではありました。
決してなりたかったわけでもない。
でもどこかには就職しなければならない。
その時、そのタイミングがきたから選択したにすぎません。
それなのに、高校野球やってきて挨拶ができてアルバイト経験も豊富で、
社会人としての適応力に変な自信があって、会社の上司やお客様にも可愛がってもらえるだろう、
営業成績もそこそこいいところまで行くだろう、そのくらいのイメージは持ってましたからね。
今思い返しても勘違いも甚だしい大バカ野郎ですよ、マジで。
入社式で見る60人の同期はどこか皆幼く見えて、大阪での3か月の研修期間を経て
意気揚々と東京兜町支店に配属されたんですね。
1年にも満たない証券マン時代に唯一後悔があるとすれば、自身の担当エリアを「世田谷」にしたこと。
東京でお金持ちが住む街として真っ先に思い浮かんだのが世田谷でした。
どうせ金融の営業をするならば、お金持ち相手の方がいいだろうという計算もありましたし、
大学時代から幼馴染のタダシが住んでいた世田谷に遊びに行って土地勘もあったこともあって、
「新入社員は町工場とかがある下町のエリアにしとけ。」という支店長の助言を振り切り、
一発狙いに走って見事なまでに都会の厳しさを味わうことになったんですね。
町工場の社長は人情派も多く地方出身者も多いことから、山形や函館の話しは東北や北海道へと
話しが広がりやすく、何度も通うことで懐に飛び込める可能性があるということ。
直接会社で名刺交換ができるということも大きな理由でした。
一方、高級住宅街はインターホン越しでしか挨拶回りしかできず、昼間はお手伝いさんが対応して
家主と会うことなんて全くと言っていいほど叶わないわけです。
焦っていましたねぇ。。。
こんなはずじゃないって。
途中から、世田谷に向かう途中の渋谷区三軒茶屋方面でローラーをかけてましたけど、
在籍中の新規契約は、ただの1件も獲れませんでした。
同期が少しづつ契約を取ってくる中、最後まで新規が獲れない自分に支店長から
「親でも兄弟でもいいから新規を引っ張ってこい!」と叱咤され、気持ちが切れたんです。
奨学金も借りずに大学まで出してもらって、この上ノルマが達成できないからお金を預けてくれなんて
いくら勘違いなバカでも言えるわけがないでしょう。
短かった自分の東京でのサラリーマン生活の終わりです。
でも、今思い返せば早いうちに東京で挫折して良かったのかもしれません。
人生にはいろんなタイミングがあります。
今朝はふと、肌寒さからそんな昔のことを思い出した朝でした。
今日ものんびりやります。
ではでは。
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毎度ありがとうございます!
国の緊急事態宣言はいいのだけれど、今度は逆にどうすれば自粛解除や営業再開できるのかという
指針がなく、我々のような飲食店を営む自営業者は光の見えないトンネルの中にいる感覚です。
そんな中、いち早く大阪府から自粛解除の3条件を示す「大阪モデル」というものが発表されました。
山形県は他の都道府県よりは感染拡大の封じ込めに成功しているほうだと感じていますけど、
大阪だから北海道だからということではなく、この国の日常を取り戻すために、また経済活動が
出来るようになるためには、同様にオリジナルの目標というものが必要だと思っていました。
感染者ゼロの岩手県では明日から自粛を解除し、学校再開も決定したそうです。
各都道府県単位でいいので、県知事から「こうなればわが県の自粛は解除しますよ。」という
指針が出れば、事業者としても消費者としても新しい生活様式を上手く取り入れながら、
またいつものような日常を取り戻すことに一歩近づけるわけです。
もちろん自粛解除・学校再開ができる反面、もしもまたこの数値がここまで上昇した場合は、
もう一度自粛要請しますよという部分もしっかりと折り込みながら「山形モデル」というものが
独自に分かりやすく、そして取り組みやすく示してもらえればと切に願うばかりです。
しかし、大阪府は吉村知事のリーダーシップがハンパないですね。
自分も大学を卒業して大阪本社の証券会社に就職した際に、2ヶ月間の研修でお世話になりました。
住んでいた寮の住所は京都府八幡市でしたけど、寮の隣の家は大阪府枚方市でしたから、
まさに府境ギリギリの住所だったんですね。
最寄りの駅も大阪府枚方市にある京阪電車「樟葉(くずは)駅」でした。
毎朝バスで樟葉駅まで行って本社のある北浜までの定期券を渡されて、
初めて満員電車で通勤した日々のことは今も鮮明に覚えています。
休日には、京阪電車を京都方面に乗っていけば淀駅があり、そこには京都競馬場があります。
くずはモール下のパチンコ屋にもよく行ってましたし、休日のやることはギャンブルしかないんですよ。
60人くらいの新入社員がいたのかな。
東日本は東京支店採用、西日本は大阪本社採用でしたね。
証券マンは入社後「証券外務員第Ⅱ種」に合格しないと、証券商品を扱う営業には出れません。
全員がその証券外務員Ⅱ種試験に向けて、大阪で猛勉強させられるわけです。
よく大阪の人は商人気質で、お金に細かそうとか、セコいんちゃうか、などと言われますが、
自分の知り合った同期を見る限り、大阪人のほうが気風はいいし、いい意味で人情派ですよ。
同期で飲み会をやっても、体育会系の自分には何百何十円まで割り勘にする東京のやつらより、
「ここはこれでええて。ほんなら次、自分がちょっと出してくれたらええやん。」とか
トイレ行くついでに会計を済ませておいたり、自分もそういうタイプの人間でしたから、
大阪の仲間たちのそんなところがなんとも心地よかったものです。
もちろん今は「東京の人」「大阪の人」なんて意識して付き合うことはありませんよ。
息子の野球部の全国各地の保護者のみなさんとも、めちゃくちゃ仲がいいですしね。
息子のおかげで、いい方々と素晴らしい出会いをさせてもらってます。
そういえば今思い出したけど、京都支店採用の女子社員のはんなり言葉というか、
彼女たちの話す京都弁には、なんとも衝撃的でみんなが可愛く見えたものです。
でも、全員キツかったかな性格は。
そこは間違いないと思うけど(笑
そんな余計なことまで思い出した「大阪モデル」の話しでしたけど、鶴岡市内の中学校は
明日あたりから始業式や入学式が行われ、11日から通常授業が再開のようです。
でも同じ県内でも、山形市は5月31日までは休校だそうですけどね。
各自治体での取り組みや、医療機関とのバランスもそれぞれでしょうから、
自粛解除は全国一律でなくていいんですよ。
どの時点で再開するか、一日一日で状況が変わってきますし、情報のアンテナは常に各方面に
張っておかなくてはなりません。
というわけで、今夜は息子のリクエストに答えて焼肉にします。
米さえ炊いておけばいいから、こっちも簡単です。
息子と仲のいい下宿生のやつらにも、焼肉を食わせてあげたいんですけどね。
なかなか制約やタイミングが合わず、いつまで経っても実現しません。
さて、そろそろ準備しますか。
ブログは、また明日です。
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毎度ありがとうございます!
今朝は久しぶりに竹原ピストルの「東京一年生」を聞いて昔を思い出していました。
「東京一年生」って言葉が、何だか30年前の自分を思い出します。
高校の商業科から大学の商学部を卒業して漠然と希望した証券業界に進み、大阪での研修を経て
日本株式の中心「兜町支店」に配属された、あの頃の自分に重ねてしまいます。
我孫子発の始発の常磐線に飛び乗り、北千住で東京メトロ日比谷線に乗り換えて茅場町まで、
満員電車に揺られ、ただがむしゃらに日々を暮らしていたのを思い出します。
毎日ネクタイにスーツを着て、アタッシュケースにポケットティッシュと名刺を山ほど詰め込んで、
毎日毎日飛び込み営業と電話営業のその先にある自分の未来なんて、何も見えず何も考えれず、
東京の大都会の景色の中に紛れ込んでいた、若き日の自分の姿です。
デジタルロックにフローリングとロフト付きの真新しい部屋で、弁当ばかり食っていました。
あの頃すでに完全週休二日制に、新卒で25万円の初任給と寮という名のワンルームマンション。
優遇されていた当時の環境と、それに反してやっている仕事の無力感と疲労感とのギャップ。
休日はいつも上野のパチンコ屋で一日を潰し、勝てばガード下の飲み屋で一杯ひっかけて、
負ければフーッと大きなため息と、澱んだ東京の空を見上げて「なにやってんだろうな、オレは」
と嘆いた日々が、懐かしくも切ない思い出として鮮明に心に刻まれています。
どこに行くにも、駅の路線図と料金表を見ないと電車に乗れなかった自分が、
定期片手に当たり前のように改札をすり抜け、乗り換えホームまで走っていることにふと気づいて、
少しづつ東京の人になっていく自分に妙に寂しくも嬉しくなってみたりして。
東京への憧れがなかったといえばうそになります。
実際に東京での暮らしは、20代でまだまだ調子こきたい自分には楽しかったのも事実ですし。
ただ、仕事に対する満足感というか充実感が全くの0%でしたから、なんか背伸びしてる自分と
これでいいんだと思い込もうとする自分が常にいました。
30年の時が過ぎ、たまに行く東京は、田舎で暮らし田舎で商売する自分に刺激と発見を与え、
今でも大きく影響を受ける街であることには違いありません。
さすがに、この歳からは東京で暮らしたいとは思いませんけどね。
たまに行くからいいんでしょうね。
「しばらく東京にも行ってないなぁ。」などと思いつつ、竹原ピストルの「東京一年生」を
リピートで繰り返し聞きながら、煮込みを作るいつもの自分です。
♪暮らしづらいのは街のせいじゃない 暮らしづらいのは大丈夫、夢があるからさ~
頑張れ 頑張れ 東京一年生 頑張れ 頑張れ 東京一年生~♪
耳に残るフレーズと、鼻歌でも歌えそうないい曲です。
今日も頑張ります。
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毎度ありがとうございます!
先日、鶴岡ドリームスの全国大会出場に関する寄付金を、当ブログでお願いしたところ、
早速、同級生やら後輩やらからありがたいことに寄付金を頂戴いたしました。
イタガキ、マツウラ、タケシ、本当にありがとうございます!
選手団のために、ありがたく使わせて頂きます。
そして「頑張っての!」と言ってくれるその短い言葉と、その心意気に胸が熱くなります。
いつかなにかの折に自分に協力できることがあれば、喜んで自分も協力させて頂きます。
せっかくなんで全国大会でお邪魔する沼津市のことを、ちょっと調べてみたら
富士山のふもとにある街で駿河湾を眼下に見下ろす山と海と緑の街なんですね。
実は、自分は富士山をちゃんと見たことがないんですよ。
大学4年時に就職内定の拘束旅行で箱根に行って、芦ノ湖に浮かぶ海賊船みたいな船のデッキから
遠くにかすかに見えた富士山と、マスターズ甲子園に前乗りする際に羽田からの飛行機の窓から
見えた富士山と、しっかりと地上から見上げたことが一度もないんですよね。
拘束旅行とは、当時は就職協定(会社訪問開始)が8月20日に設けられていたんですけど、
実際には解禁前から面接はやっていて6月くらいにはすでにみな内定をもらってたんですよね。
その確保した内定者に他社を受けさせないために親睦旅行の名目で身柄を拘束して
二泊三日のドンチャン旅行に会社が連れて行くんですよ。
もちろん北海道からの交通費も全部会社持ちで。
世の中はバブルでしたから。
大阪に本社のある証券会社でしたけど、同期入社で100人はいたと思います。
西日本の本社採用組と、東日本の東京支店採用組とで分けられ、自分は東京組でした。
1年ももたずに、同期の中では真っ先に会社を辞めたダメ社員でしたけど、
大阪研修時代も含めて本当に密度の濃い時間を過ごさせてもらいました。
ビジネスマナー、電話応対、名刺交換、上座下座、接待所作など、
社会人としての基本をしっかりと学ばせてもらった時間だったと思います。
会社を辞めて数年の間は同期のやつらとも頻繁に連絡をとっていて、何度か東京や横浜で
みんなと再会したりして、繋がりがあったんですけどね。
CL(カウンターレディ)の女子社員が一人二人と寿退社していくにつれて、
東京同期会も自然消滅していった気がします。
みんな元気なんだろうか。
若かったけど、希望と情熱を持って東京に出てきて、まだ大学生のノリで突っ走っていた
あの頃がなぜか今頃になって懐かしいです。
あの頃、遠くに見えた富士山を見ても何の感情も湧かなかった20歳そこそこの自分が、
50歳を越えた今、息子の野球する姿と一緒に富士山を眺めて見て、何を思い何を感じるのかも
今から楽しみな事のひとつではあるんですよね。
沼津とは何の関係もない話しですけど【富士山】というワードから、
21~22歳の頃のヤング島耕作みたいな自分の若かりし頃を思い出していました。
寄付金、まだまだ受け付けさせて頂いております。
「頑張ってこいよ!」というお声とともに、寄付金のご協力をお願いできれば嬉しいです。
そして子供たちに負けないように、自分の今日を精一杯頑張るだけです!!
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毎度ありがとうございます!
4月1日、新しい一歩を踏み出す期待と不安の入り混じった日でしょうか。
自分の社会人としてのスタート、4月1日は大阪で第一歩を踏み出しました。
東の兜町・西の北浜といわれる相場の街で、スーツに身を固めて気合いが入っていた記憶があります。
大阪が本社でしたので新入社員全員が一同に揃い、そのまま2ヶ月間の研修に入ります。
証券会社の営業マンは、全員が証券外務員Ⅱ種試験に合格しないとなりません。
その試験合格に向けて寮と研修センターの往復の日々でした。
大学でもほとんど勉強してこなかった分、ここで猛勉強したわけですけど、
人間、急には変われませんよね(笑
講義が始まるとすぐに寝るクセが顔を出してしまって、いつも寝ている自分を見て
同期の連中がつけたあだ名が「トド」でした(笑
それでも、自分なりには勉強しましたねー。
数学や英語が出題されれば完全にアウトでしたけど、
株取引や金融商品についての実務的な試験でしたから、
大学で学んだ証券法や商法や小切手法なんかの知識が活かされて
丸暗記でなんとか乗り切りました。
それでも同期で4人くらいは落ちましたけどね。
落ちたら2ヶ月先の次の試験まで大阪から帰れないんですよ。
「可哀想にな。もう自分、大阪の人でええやん!」とイジられて
寮に残ってみんなを見送りしなければなりません。
本社の寮があったのは京都府八幡市というところで、大阪との境にある街です。
定期を持たされ、朝から満員の京阪電車に揺られて通勤していると、
自分もサラリーマンになったんだなぁと実感したものです。
週休二日で初任給は23万円だったと思います。
週末は琵琶湖まで遊びに行ったり、京都競馬場や大阪城に行ったりして、
試験勉強の合間をぬって、それなりに大阪ライフを満喫していたんですよね。
大阪本社採用の同期も多くいて、初めはあの大阪弁でグイグイくるのが苦手でしたけど、
意外と太っ腹なところもあって、気の合う友人もたくさんできたのも懐かしい思い出です。
あれから27年も経ったのかと思うと、本当にあっという間です。
社会人1年生の頃に、今の自分の姿を思い浮かべることは全くできませんでした。
同期入社の中では一番で会社を辞めて、北海道に戻ってからもいろんな仕事をやって生きてきました。
そんな時間があったからこそ、今の自分がいます。
レミオロメンじゃないけれど、自分とっては3月9日よりも、晴れやかな希望と新しい生活が始まる
4月1日に思いを馳せることが多いです。
みんな最初はゼロからですから。
小さな一歩ですけど、大きく踏み出して行って欲しいと思っています。
新社会人に負けないよう、今日も一日頑張っていきましょう!!