"高校時代"カテゴリーの記事一覧
-
毎度ありがとうございます!
以前、ブログでも書いたことがあるんですけど、高校時代に野球部を途中で辞めてしまった
カツオの話しを書いてみようと思います。
横浜から越境入学で鶴商に来たカツオは、44人入部した中でも一番背が低かったと思います。
背が低かったせいか重心も低くセカンド向きのフットワークと堅実なグラブさばきを見せ、
同期の中でも期待されていた選手でした。
その証拠に、セカンド・ショートの内野全般のほかにピッチャーとしてもマウンドに上がっていましたし
外野手としても練習試合に出ていた記憶があります。
きっとキャッチャー以外全部やったんじゃないかな。
それだけセンスがあったヤツでしたし、監督もどこかのポジションでカツオを使うため、
いろんなところを守らせて目をかけていたことは間違いありません。
「カツオ」という名前が親しみを呼び、逆に調子に乗ったり見下したりするようなヤツでは
ありませんでしたから、同期のみんなにも好かれていたし可愛がられていたと思います。
そんなカツオは、3年生が引退して新チームとして地獄の夏練を乗り切った秋ごろに
突然、野球部どころか学校までも辞めてしまったんです。
自分なんかに説得する時間があったのか、辞めていくカツオに何と声をかけたのか、
残念ながらその時の記憶はありません。
それは、44人入部した同期が最終的に11人しか残らず、毎日のように誰かは辞めていくという、
まさにサバイバルな毎日だったからなんですよね。
まだ子どもで未熟だった自分は「辞める=逃げる」だと思っていましたから、
正直なところ辞めていったヤツのことよりも、今の自分の今日一日を生き抜くことしか
考えられなかった日々を送っていました。
そんなカツオからメールで連絡が来たのは2012年の春頃のことでした。
なにかで検索ヒットして辿り着いたのか、突然「OB会事務局長様」みたいな
かしこまった堅い文章のメールでしたけど、それはすぐに同期のカツオだと分かりました。
その直後の第93回大会で30年ぶりに母校が甲子園に出場することになり、
カツオからも「自分はOBではないけれど、何か協力させてもらえないだろうか。」と
相談を受けた時はなんとも言えず嬉しかったですね、やっぱり。
カツオが鶴商を辞めてしまった後にどうしていたのか、自分も含め同期の誰も知りません。
他の高校に転入したのか、地元の横浜に戻ったのか、野球は続けていたのか・・・
先日、キャプテンワタルの親父さんの訃報をブログに書いたその数日後に、
カツオのおふくろさんがお亡くなりになられたんだそうです。
その時に「おふくろさんの好きだったお花でもあげてやってください。」と
気持ちばかりでしたけど送らせてもらったんです。
ご香典としてではなかったので、香典返しや返礼品は無用だと手紙を入れたんですけど、
昨日カツオから荷物が送られてきました。
開けたら、崎陽軒のシウマイ!しかも10箱も!
おいおいカツオ、これじゃぁむしろ気を使わせてしまったようで気が引けるじゃねーか。
50年以上生きてきて、高校1年生のわずか数ヶ月しか一緒に過ごせなかった同期でしたけど、
こうしてまた連絡を取り合うようになり、気持ちが通じ合えるというのも不思議なものです。
しかも、カツオが辞めたとき以来ですから37年経った今でも、実は再会は果たせていません。
娘さんと甲子園でキャッチボールした際の写真や、オヤジになったカツオの写真は見せてもらいました。
「いつか絶対に同期で集まるから、その時は必ずカツオも参加してくれ。」と
いつも電話で話すたびに約束しています。
思うように動くことの出来ない今だからこそ、またいつものみんなの日常が戻ってきたら、
「そのうちそのうち」と先延ばししてきたことを、一つひとつ実現させていこうと思っています。
人間はいつどうなるかなんて誰にもわかりません。
自分は大丈夫だったとしても、世の中がどうなってるかなんて誰にも分からないわけです。
我々も今年でもう53歳になりますからね。
そのうちがいつまであるか、だんだん怪しい年代になってますから。
鶴商を辞めてしまった後のカツオの話しは、再会した時まで聞かずにとっておきます。
自分の話は・・・このブログを読んでいれば、昔の話しから今までが手に取るように分かるはずです(笑
今、県外からの同級生たちと日々切磋琢磨している息子にとっても、
人との繋がりや縁というものが決して今この瞬間だけのものではなく、
何年も何十年も経った後でも結ぶことが出来るんだということを
今晩シウマイを食べながら教えてやろうと思っています。
時に仲良しグループを作り、時に気の合う仲間作りをして満足していた学生の頃とは、
まったく違う価値観の中で大人の交友関係は生まれ結びついていくものです。
その結びつきや出会いが自分にとっての「財産」になることを、息子はまだ知らないでしょう。
自分もお店を通じて出会ったたくさんの方々とのご縁の深さを、今まさに痛感しています。
カウンター越しに他愛のない話しをしていた、ついこの間までの日々が懐かしくさえ感じます。
テイクアウトや完全休業など考え方はいろいろありますけど、目指すべき目標はみな同じです。
そのための準備とその日のためのモチベーションは切らさずに、頑張らなければなりません。
11日から時短営業で再開というのも具体的に考えていますけど、まだ正式ではありません。
コロナ第二波の呼び水にならぬように世間の動きにも注視しながら、慎重に判断していきます。
決まり次第報告しますね。
ではこれから、晩メシ前にシウマイのアレンジした食べ方を検索してシウマイパーティの準備をします。
カツオ、ありがとうね。遠慮なくご馳走になります。
素敵なGWをお過ごしください。
ブログは、また来週です。
ではでは。
-
毎度ありがとうございます!
昨日、神奈川に住む野球部の先輩ハヤシさんから、息子あてに木製バットと
トレーニングバットが送られてきました。
もちろん息子に「頑張れ!」という意味で送って頂いたのだとすぐに分かったんですけど、
何の前ぶれもなく突然バットを送ってくださるその激励の気持ちと、気にかけていただいている
そのありがたさと、いろんな意味でその全てに感謝しか言葉が見当たりません。
本当にありがとうございます!
昨日夜中に帰宅したら、早速ガレージで頂いたバットで素振りしていました。
バランスのいい振りやすい白木のバットを気に入ったみたいで、ダラダラ汗を流しながら
必死にバットを振っていました。
明日も朝練に参加するために5時起きだというのに、0時頃まで黙々と振ってました。
結果を出せず悔しいことや思うようなプレーが出来ず自分が情けないこともあるでしょう。
そんな時は、一心不乱にバットを振れと言ってきました。
一心不乱にバットを振っていると、まるでお寺の禅のようにやがて街の喧騒や雑音が消え、
ある瞬間からバットのブンッ!という音しか聞こえなくなる時があります。
実際のバッターボックスをイメージし、ピッチャーからの生きたボールが残像のように見えて、
しっかりと振り切ってボールを弾き返すイメージがはっきりと見えながら素振りできる瞬間、
いわゆるゾーンに入ってる状態での素振りまで持っていかないと意味がありません。
そんな時は数を数えるのも忘れてしまってるし、一球一球が実践モードで中身の濃い素振りが
出来ているはずです。
車を停め、少しその素振りに付き合ってました。
「振りやすくていいバットだね。お父さんの先輩が送ってくれたの?」
「おう。頑張れってよ。先輩にとってもお前は後輩になるわけだから頑張ってほしいってよ。」
「うん。そっか。」
「そろそろキリのいいところで止めろよ。明日も早いんだろ。」
「うん。もうちょっと振ったら止める。」
そういえば、同じく先輩のヒロシさんにも木製バットを送って頂いたことがあったんですけど、
プロ野球選手の実使用バットだったりして、少しだけ振って「もったいないからこれは飾る」って
今は部屋に飾ってあります(笑
先輩後輩以外にも、人相は悪いけど愛想はいいトモカズにもバッテやトレーニング器具を
もらったりして息子のことを気にかけてもらっています。
たくさんの方々に応援してもらって、本当に恐縮しまくりですけど、
ただ今チーム内競争の真っ只中でございまして、自分は陰ながら支える役に徹しております。
なんか、あの地獄のような3年間と刑務所のような寮生活を思い出すと、今こうして
あの当時の先輩方から息子も含めて気にかけて頂いていることに、なんというか
たくさんの想いが溢れてきて、やっぱり「ありがとうございます。」しか言葉が見つかりません。
ベンチに入れるかどうかは全く分かりませんけど、とにかく一生懸命に頑張っています。
その頑張っている姿を、お世話になっている方々に報告するくらいしか今の自分にはできません。
感動の夏の甲子園が終わり、その活躍を一過性のもので終わらせるわけにはいきません。
すでに厳しい競争が始まり、現役部員は先日の甲子園ですら余韻に浸っているヒマはありません。
次はオレたちの代が、次は自分があの舞台で、目標はしっかりと見えているはずです。
支えてくれて応援してくれた方々への感謝は、一番最後でいい。
今は、ただただ泥んこになってボロ雑巾のように真っ黒になって野球に取り組むだけです。
ハヤシさん、ありがとうございました。
息子本人から直接のお礼も出来ず申し訳ありません。
これからも宜しくお願い致します。
また甲子園でお会いしましょうね。
飲みすぎ注意ですよ!
あんまり酒強くないんだから(笑
-
毎度ありがとうございます!
先週の金曜日、鶴商時代の先輩シンジさんが東京から遊びに来てくれました。
シンジさんは単なる先輩だけではなくて、鶴商野球部登高寮201号室の同部屋でして
我われで言うところの自分は「部屋子」にあたります。
まさに毎日の寝食を共にした関係でもあります。
ストイックで本当に厳しい先輩でした。
夕食後、毎日のように室内練習場でティーを何箱も打っていたんですけど、
球上げしている自分に「今、ここを意識しているから、お前も見ててくれ。」などと
1年生のゴミのような自分にもグリップの位置だったり左肩の開きだったりと、
気にしているポイントをチェックさせるものでした。
性格のひん曲がったほかの先輩には死ぬほどぶっ飛ばされましたけど、
シンジさんは自分に一度も手を上げたことはありませんでした。
むしろ、他の先輩にボコボコにやられていると「もう、そのへんでいいんじゃない?」などと、
助け舟を出してくれて救っていただいた日のことを忘れることはありません。
上手い人ほど後輩には手を出さないもんなんだな、とひとつの法則みたいなものを
自分の中で見つけた瞬間でもあります。
先輩も自分たちの代でもそうですけど、野球が下手なヤツほど後輩に手を出すものでした。
情けない話し、それはもちろん自分を含めてですけど。
卒業式のあと、野球部の3年生だけはなぜかみんな学ランからビシッとスーツに着替えて
街に繰り出すのが恒例行事になっていて、その姿がやけに眩しくカッコよく見えたものです。
卒業以来、何度かお会いする機会はありましたけど、こうして一緒に酒を飲むのは初めてでした。
もちろん、現役時代のようなピリピリとした雰囲気はそこにはもうなくて、気さくに楽しく
そして懐かしく、あの地獄の登高寮でクソまずいメシを食って戦ってきた仲間意識のほうが
この歳にもなれば大きいのかもしれませんね。
野球部時代を最後まで寮で過ごしたのは、自分たちが最後の世代です。
あの地獄の日々に戻りたいとは思わないけど、もう一度みんなで1ヶ月くらいなら
生活したい気もします(笑
結局2時くらいまでは飲んでいましたけど、一番酔っていたのはマナブさんでした。
地元にいる同期はほとんどいませんから、たまにこうやって昔を懐かしんで酒を飲むのが
いつも以上に楽しかったようで、いつもよりもハイピッチで日本酒を飲んで同級生の女子に
下ネタでドン引きされいても、責めるわけにもいきませんわね(笑
そんなマナブさんの姿も嬉しかったです。
いつもは、こんな生意気な後輩を相手に「うんうん」聞きながら酒を飲んでるわけですから、
マナブさんにとっても本当に楽しい夜だったんでしょう。
「シンジ、ちょいちょい鶴岡に来れるだろ?また鶴岡に顔出してくれよ。」と何十回も繰り返していました。
くだらない下ネタ連発に同じ話しを何度も何度もするマナブさんに、
「おい!オヤジ。酔っ払いすぎだぞ!!」と、どっちが先輩か分からないトーンで
ツッコミを入れるワタルも、翌日電話がきてまったく記憶がないそうです(笑
奇しくも201号室のシンジさんと自分、205号室のマナブさんとワタル。
さっきの話じゃないけれど、もう一度だけ戻るなら部屋だけはチェンジしてください!(笑
そのくらい205号室は、後輩たちが羨むほどの「楽部屋」だったんですよ。
一緒になってラーメン食ってたり、先輩にタメ口こいても怒られなかったりして。
それに対して、我らが201号室は他の部屋が4人部屋なのに対して、下級生は自分のみ。
さらにシンジさんとスズキさんの持つ雰囲気から、さながら危ない人たちの「組」というか、
毎日が殺伐としていて、おそらく同期のだれにお願いしても代わってはくれないでしょうね。
自分にとっては、それが良かったんでしょうか。
そういえば、自分は現役時代に安岡力也のホタテマンに似ているという理由で
「ホタテ」というあだ名をつけられていたんですけど、シンジさんは自分を「ノリ」と
呼んでくれていたことにも、なんというか嬉しかったというか気恥ずかしかったというか、
不思議な感覚でもありました。
自分自身、当時の先輩や同期に「ホタテ」と呼ばれるのは何とも思わないんですけど、
もうお互いに大人ですから気を使ってくれたんでしょうかね。
確かに自分の後輩たちにも「オヤジ」「ボケ」「ネコ」「ダルマ」「不気味くん」だの、
当時からヒドイあだ名で呼んでいた後輩もたくさんいますけど、卒業してからは自分も自然に
苗字や名前で呼ぶようになりました。
ただ「クサコン」のことだけはどうしても「ジュン」とは呼べないんですよね(笑
一番訂正してあげたいあだ名なのに、本当に申し訳ないです。
来月の50周年で会ったときに、「ジュン!」って呼んでみようかな。
あいつ、絶対に気がつかなくてシカトしそうだけど。
自分はなんと呼ばれても全然平気です。
気を使わずに会話が出来るならば、それでいいです。
さーて、煮込みもいい感じに仕上がってきました。
今週も精一杯頑張りましょうか。
-
毎度ありがとうございます!
朝から残念な報告をせねばなりません。
鶴商学園野球部が初めて甲子園に出場した際に部長を務めて頂いた小山田英一先生が
16日、ご自宅のある千葉県でお亡くなりになりました。
享年66歳。
早すぎる旅立ちです。
昭和53年の甲子園初出場、そして翌年春のセンバツ出場と鶴岡東野球部を語る上で
田中先生・茂木先生とともに創生期の鶴商野球部を支えてくださり、多大なるご尽力を賜りました。
自分が入学した頃にはすでにソフトボール部顧問でしたが、野球部同様に女子ソフト部員にも
熱く厳しい指導をされる熱血先生として深い印象があります。
OB会にも幾度となく気さくに出席していただいてご挨拶して頂きました。
奇しくも、今OB会では「鶴岡東高校野球部創部50周年記念誌」の発行に向けて準備を進めており
小山田先生のご活躍や当時のご指導を掘り下げて取材・記事にしようとしていた矢先の出来事でした。
体調が芳しくなく入院されていたとはお聞きしていましたが、こんなにも早く突然お亡くなりに
なるとは夢にも思っていませんでした。
自分が現役時代には、あまりお話しする機会はなかったんですけど、
自分にとって絶対に忘れられない話があります。
自分がOB会事務局を引き受けてOBだけで結成した「鶴商学園倶楽部」の追加加入メンバーが
多くなり、ユニフォームの数が足りず困っていた際に、その昔、ソフトボール部も野球部と同じ
縦じまのユニフォームを着ていたというのを聞いて、ある日突然職員室までお邪魔して
小山田先生に「ソフト部の縦じまがあったら是非譲って下さい!」と直接交渉して
譲って頂いた日のことを思い出します。
野球部でもよく知らない、いつの年代の誰かも分からないヤツがある日突然やって来て、
「ソフト部のユニフォームをくれ。」なんて突拍子もないお願いをしたのにもかかわらず、
「鶴商学園倶楽部の趣旨は分かった。このまま倉庫に置いておいても仕方ないから使ってくれる
んだったら全部持っていけ。それで全国大会に行ってくれれば嬉しいけどなぁ。」
と、快く10着くらいを譲って頂いたんですよね。
身体の小さいメンバーにはそのまま着させて、身体の大きいユニフォームが着れない奴らの
パッツンパッツンのユニフォームにはサイズ補正用の生地として有効活用させてもらいました。
あの縦じまのユニフォームをもう一度着たくて、学園倶楽部に入りたいという若いOBたちを
断ることなくみな入部させることができたのも、小山田先生の優しさと良きご理解があったから
だと今でも思っています。
今のOB会の繁栄に一役買ってくれたのが学園倶楽部のメンバーたちだとするならば、
その橋渡しというか繋がりを途切れさせずに継続させてくれたのは小山田先生のおかげと
いうことになるでしょう。
来年1月の50周年記念式典には是非ご出席頂いて、あの時のお礼とその後の学園倶楽部の
全国大会出場の話しも聞いていただきたかったです。
偉大なる恩師をまたひとり失いました。
30年ぶりの甲子園を決めた年には田中先生が、創部50周年の年には小山田先生が
その節目をOBたちと一緒にお祝いすることなく、みな天国へと旅立っていきました。
寂しいかぎりです。
本当にお世話になりました。
心よりご冥福をお祈りいたします。
合掌
-
毎度ありがとうございます!
昨日は、中学時代の一瞬しか接点がないのにもかかわらず大人になった今でも気さくに
仲良く付き合ってもらっている同級生たちの話しを書きました。
逆に、高校時代の苦楽を共にし同じ釜の飯を食った仲間でも、
今では全く付き合いもなく、おそらく今後も付き合うことはない同級生もいます。
嘘、虚勢、先輩への媚売りと同期への見下し・・・
何が原因とは一言では表現できません。
先日、高校を卒業以来35年ぶりにお世話になった先輩から連絡があったんですけど、
ひとしきり思い出話をしたあとに「で、アイツとは何があったのよ。」と聞かれ、
子供が親に告げ口するかのように「あの時あーだった、この時こー言った。」だのと
昔の出来事をいちいち説明している自分に、もの凄い嫌悪感を覚えたんですよね。
生意気だと思うなら、どうぞそう思ってもらって結構なんですけど、
「先輩、なにかアイツに頼まれたんですか?いまさらそこイジってどうするんですか?」
と反論せずにはいられませんでした。
あのね、自分ももう51ですよ。
結婚し家庭を持って社会人になった娘もいて、地元に戻ってきて商売をやりながら、
OB会の事務局も積極的に頑張ってきて、日々の生活にもこれからの日常にも、
アイツとの接点がなくてもなんの弊害もないわけですよ。
いつまでも学生じゃないんでね。
仲直りしなきゃな、なーんて1ミリも思いませんし、その必要性もまったく感じません。
50年以上も生きてきた中で、誰にだってウマが合わないとか、どうも波長が合わないとか、
仲良くなれないヤツの一人や二人いたって普通のことだと思うんですけどね。
中学時代の同級生にも付き合いをやめた仲間がいて、そいつとは20年ぶりのクラス会がきっかけで
また連絡を取り合うようになったケースもあります。
やっぱり、裏切りや嘘や仲間を見下すようなやつとは自分は付き合いませんし、
付き合いをやめることに、なんら迷いや戸惑いも躊躇もありません。
仲間に対する想いが特に強いのは自分でも自覚してるんですけどね。
そういえば、高校を卒業して函館にいた頃、鶴岡に帰省した際に仲間が居酒屋で他の客に
ボコられたことを聞かされ、その直後に偶然にもその相手と会う場面があって
取っ組み合いの大ゲンカをしたことがあります。
仲間を見下されてムカついたし、必要以上に手を出されたことが何より許せなかった。
いわゆる「敵討ち」ですよ、気持ちの上では。
まだ若かったですけどね、自分も。
だからこそ、逆に仲間からの裏切りや嘘には過剰に反応してしまいます。
言葉ひとつ、態度ひとつで疎遠になってしまうことはないにしても、
そういう細かいことの積み重ねというか、蓄積された不信感が爆発すれば、
付き合いをやめるという決断を躊躇なく選択するでしょう。
もっと表面上だけでも上手く立ち振る舞って「そうですよねー。」なんて軽く流せれば
もっと楽なんでしょうけど、あいにく不器用なもんでして・・・
そうやってもう50年生きてきましたから。
今朝は、仲良く出来ない同級生の話でした。
いいことばかり楽しいことばかりではないけど、
それもまた生きている証しか。
それでも仲間に恵まれている自分の日常に感謝しながら、
今日も頑張ります。
-
毎度ありがとうございます!
50周年記念誌の編集作業の真っ只中に、編集長をお願いしてる後輩のタザワが、
田中先生の奥様からたくさんの写真が綴られたアルバムを、何冊もお借りしてきました。
甲子園出場を決めた瞬間の歓喜に沸く鶴岡市民の様子や、甲子園や宿舎での様子のほかに、
毎年恒例行事だった芋煮会の集合写真も、各年度ごとを丁寧にスクラップされていて、
1枚づつ田中先生がファイルで閉じてくれて大切に保管してくれていたんだなぁと思うと、
もの凄く感慨深い気持ちになったんですよね。
そして、そんな中に自分たちの年代の写真のページもありまして、そこには高校最後の打席の
自分の写真も一枚だけ綴られていました。
みんなかっこよく打ったり構えたりしてる写真の中に、
押し出しファーボールで最後を終えた自分らしい不恰好な
「見送り」の写真でした。
周りにほかのOBたちがいなかったら、
間違いなく泣いていたと思います。
こんな写真があったこと、それを大切にアルバムに貼って田中先生が残しておいてくれたこと・・・
1枚の写真から、いろんな想いや感情が溢れ出て、胸が熱くなるのを抑えきれませんでした。
県立高校の受験に失敗して、滑り止めの鶴商学園にかろうじて入学できて、なんとか続けた
野球部でヘタクソだった自分の現役最後の打席を、まさか田中先生のアルバムの中から
見つけることになろうとは夢にも思っていませんでした。
準々決勝の山形南戦で9点差ついてなおも満塁、1点入れば5回コールド勝ちの場面で
「イシカワ、押し出しでいいから振らなくていいぞ。」と声をかけて送り出された、
いわば思い出作りの最後の打席でした。
代打で送り出しておいて「振るな」はねーだろうが!とムカついて打席に入ったんですよね。
そして、その初球・・・
先生からの指示を無視してマン振りした打球は、レフト線に切れる大ファールでした。
ベンチから聞こえるナインからの声は「いいぞー!思い切って振ってけよー!」
田中先生からの指示を無視して、みんなが「お前が打って決めろよ!」と背中を押してくれていました。
晩年、先生と二人で酒田に買い物に行く車の中で、あのときの代打の話しを聞いたら、
しっかりと覚えていて、次の日の準決勝・日大山形戦に備えてピッチャーを1イニングでも
温存したかったんだという、ごもっともなお考えのもとで自分を送り出してくれたんだと知り、
ガンガン打ちに行った自分が恥ずかしくなったことまで思い出しました。
「ちぇっ!何だよ、押し出しかよ!」
そう思って見送った高校最終打席の瞬間でした。
結果的には先生の思惑どおりに押し出しファーボールでゲームセットにはなったわけですけど、
ベンチに帰ってから「勝手なことをするな!バカたれが!」と怒られるのを覚悟していたら、
先生は何も言いませんでした。
もちろん、次の日の準決勝・日大山形戦では出番は一切ありませんでしたけどね(笑
本当にたくさんのことを思い出させてくれる、自分にとって貴重な一枚です。
スマホで写真を撮って、アルバムの元あった場所にそっと戻しておきました。
先生、ありがとうございました。
写真をとって置いてくださって嬉しかったです。
ダブルプレーになってたら、さすがにぶっ飛ばしてましたよね(笑
50周年記念誌、楽しみにしていてください。