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毎度ありがとうございます!
仙台にやってきました。
成績の悪い仙台支店と仙台中央支店は、北海道支社が管理することになるため東北支社を解体し、
11名いた女子社員のうち2名を残し、ほかは全員解雇という非情な任務に取りかかります。
北海道からリストラ宣告をするために、ワケのわからんヤツが来るとすでに噂になっていて、
初日から殺伐とした雰囲気の東北支社に出社しました。
早速ホテルの会議室を手配し、一人ひとりと面談しながら退職を承諾させなくてはなりません。
「☆係長には残ってもらえ。もう一人はお前が面談して決めろ。」と耳元で囁かれていましたので、
有能で女性ながら係長をやっていた☆さんと最初に面談したんです。
「会社としては☆さんの能力を評価していますし、今後も会社に残って活躍して欲しいと思っています。」
「ありがとうございます。でも私は会社を辞めます。」
「え、辞める?」
「はい。辞めます。」
「差し支えなければ、その理由を聞かせてください。」
「こんな会社にはいたくないからです。」
「・・・なるほど。」
それはそれで正しい。
そして、その正しいことをはっきりと言える☆さんだからこそ、会社も評価していたということ。
仕事がバリバリできる人が、もったいないと言われながらも突然会社を辞めるのは、
その人が有能だからだと思うんですよね。
できる人・賢い人だからこそ、会社の闇や問題点を見抜き、早々と見限るわけです。
☆さんの辞めます宣言を皮切りに「入社した時と話が違う!」「人としてどうなんですか!」
「労働基準監督署に訴えてやる!」「退職金が納得いかない!」「こんな会社潰れろ!」などなど、
散々な罵詈雑言を浴びながらも最終的には全員が辞めることになり、とりあえず仙台に来て
最初のミッションは遂行できたカタチになりました。
そして、ここから営業としての自分の反撃が始まります。(半沢直樹じゃありませんよ。)
「今日からは自分が仙台支店と仙台中央支店を統括する。まずは新規問い合わせの電話を鳴らすため
ステ看を捲くぞ。金曜の夜10時、全員黒い服を着て軍手持参で会社に集合してくれ。」
「ステカンって何ですか?」
「ばかやろう、ステ看も知らねーのか!今までの支店長は営業強化費を何に使ってたんだよ。」
「ポケットティッシュとリーフレットですかね。」
「そんなんで新規の電話が鳴るなら苦労しねーんだよ。」
確かに、ポケットティッシュやリーフレットなら就業時間内に交代で仙台駅前で配ることもできます。
でも、気合いと根性と結果だけを求められていた会社ですから、夜中の違法行為だろうが何だろうが
過酷なことをやればやるだけ「あそこの支店はよくやっとる。」と高く評価されてもいたわけです。
歓楽街や飲食店が立ち並ぶ仙台市内には、テレクラやキャバクラの路上看板があちこちに立っていて
云わば「ステ看パラダイス」みたいな場所で、もの凄く仕事がやり易かったですね。
なんの後ろめたさもなく、トラックから飛び降りてジャンジャン電柱に立てていけるんですから。
ぬるい環境だった仙台2支店を、北海道式のスパルタで気合いを入れ直した結果、
全国51支店の中で万年最下位とブービーの支店が、仙台支店が11位、仙台中央支店が18位と
とんでもない大躍進を遂げることになったんですよ。
初めて手にする「報奨金」の金額を見て、みんなが「こ、こんなに貰えるんですか。」と
驚いていた顔は今でも忘れられません。
そして、この仙台でのステ看効果に活路を見出した自分は、今度は新たな新規開拓地として
大学のある盛岡に目をつけ、また金曜の夜にステ看満載のトラックのハンドルを自ら握り、
一路、盛岡に向かって爆走していたのでした。
「盛岡は大学もあるし、これはいけるぞ!」
「うっす!」
その週明け、月曜日の朝。
フリーダイヤルで電話が鳴るのが当たり前だと思って意気揚々と出社した自分に、
非情にも一本の電話が入ります。
「盛岡の警察署です。ちょっと看板の件で責任者の方のお話を伺えますか。」
つづく。
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毎度ありがとうございます!
支店長会議の席上で、捲いていないステ看を捲いたと咄嗟にウソをついてしまい、
もう後には引けなくなった自分は、次回の臨店(支社長が各支店を回る)までには
絶対にステ看を捲かなくてはならない状況になってしまってました。
雪で電柱が顔を出していない焦りはありましたけど、幸いにも函館は札幌と車で4時間も離れてますし、
しばらくは臨店の予定がないことも知っていたんです。
それが・・・
ある日の夜8時。
支社長から電話が入り「オイ!お前、オレを騙したんか!」ともの凄い剣幕で激昂しているんです。
「あ、いや・・・」
「そこにステ看何本あるんか言ってみい!オイ!」
「に、200です。」
「お前、明日すぐに札幌に来い!わかったか!」
「ハイ。」
終わったと思いましたよ、完全に。
札幌に向かう特急北斗の窓から、冬の噴火湾の寒々しい景色を眺めながら
「なんでステ看を捲いていないことを支社長は知ったんだろう。」と推理はしたものの
正解が分かるはずもなく、そのまま札幌駅まであっという間に着いてしまってました。
何を言われたかは、ここでは書けません。
Vシネマのセリフみたいなのが、ド迫力で浴びせられます。
ただ、最終的に下された処分は「東北支社のある仙台に転勤」でした。
北海道の人は北海道の居心地があまりにいいので、あまり内地(本州)に転勤したがりません。
杜の都仙台と言えど、北海道からは左遷みたいなものと同然なんですよね、感覚的には。
誰も行きたがらないし、行ったとしてもすぐ辞めちゃう。
で、ラッキーだったのが、前任の東北支社長が同様に会社を辞めるタイミングだったこと。
ヘタ打ったのに、役職は昇格して地元の東北に戻ってこれるという願ってもない状況だったんです。
山形の隣ですし、週末はいつでも帰ってこれるし、自分にとっては最高の転勤です。
でも、そのくらい社内では誰も行きたくない場所だったんですね。
特に東北支社は、仙台の信販会社を買収した際にそこが運営してた電話レンタル会社を
支店として管理し、成績も全国で最下位という社内ではどうしようもないエリアだったんです。
そして、仙台に飛ばされた自分に与えられた最初のミッションは、
「11名いた女性の支社社員を2名まで減らせ。」
早い話し、リストラの肩たたきをしろということです。
なおさら誰も行きたがらないわけですよね。
つづき、読みたい人いるのかな。
一旦終わりにしようか。
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毎度ありがとうございます!
これは、函館でサラリーマンをやっていた頃の話しで、以前にも書いた記事のリメイク版です。
当時、親会社がサラ金の「電話レンタル会社」に勤めていて、電話加入権72,000円が不要で
月々2,980円で固定電話が引けるという、学生や単身赴任者をターゲットにした新規顧客の獲得に
毎月厳しいノルマが課せられていたんですね。
当時はまだ通話料がかからないフリーダイヤルが珍しかった時代だったんですけど、
自分の支店に掛かってくるフリーダイヤルは市外局番のアタマ3桁でエリア分けされていたんです。
どういうことかというと、0120-▲▲▲ー◇◇◇というフリーダイヤルを回した場合に、
函館支店に掛かってくるエリアは013で始まる市外局番の地域と、015で始まる市外局番の地域から
自動的に振り分けられて電話が掛かってくるんです。
札幌のすぐ隣の「小樽」も0134ですから函館支店に、最果ての地「網走」も0152ですから
そのエリアからフリーダイヤルを回せば函館支店に繋がるというわけです。
もっとも直接来店や営業が行かなくとも、書類郵送で電話は全国どこにでも引くことは出来ますので、
電話応対のマニュアルはみな同じなんですけどね。
当時、新規の数字が伸び悩むと、毎月札幌で行われる支店長会議でつるし上げられるんですよ。
「お前、来月どうするんよ、コラ!どうやって数字を上げんのか言ってみろ!オイ!」みたいな。
ヘタ打てば降格・転勤当たり前ですし、実力があれば若くして支店長もありのイケイケの会社です。
23歳で入社して25歳で支店長になった自分は当時気合い十分でしたし、広ーい北海道で
片道12時間かけて函館から網走までトラックを飛ばして、電柱にフリーダイヤルの書かれた看板
(通称ステ看)200本を取り付けるためだけに0泊3日のアホみたいな強行日程で爆走したりして、
数字を上げることだけに毎月毎月必死だったんですよ。
ある年の10月の支店長会議の席で、前月の成績が最悪で1時間近くも説教された末に
「お前、来月の営業強化費を何に使うか、どうやって数字上げるか言ってみろ!」と詰められて、
「うっす。函館支店はステ看200本発注でお願いします!」なんて言っちゃった。
ステ看の届く11月なんて、北海道はもう完璧な冬ですからね。
それでも、後には引けないわけですよ。
11月の金曜の夜10時。
電柱に勝手に看板を取り付けるのは違法行為なだけに全身黒い服装で身を包み、
トラックにステ看200本を積んで「小樽」を目指していざ出発はしたものの、
目の前の1m先も見えないくらいの猛吹雪なんですよ。
部下の若いヤツもトラックの助手席で「これ、吹雪ヤバくないですか。」なんて不安そう。
雪は積もってはいないんだけど、横殴りの暴風雪がハンパない状況なんですよね。
こんな状況の中、車で4時間の「小樽」までは到底辿り着くことはできません。
「だめだ、今日のところは一旦引き返そう。」
そう判断して、計画は翌週に持ち越しにしたんです。
そして一週間後・・・
この年の北海道は記録的な大雪のためすでに雪が積もり、電柱には除雪の山が出来ていて
もうステ看を取り付けれる余地は1ミリも残っていない状況なんですよ。
それでも、スキを見て、目の前に積まれたステ看200本を「小樽」とまではいかなくとも
函館市内にだけでも何とか捲いてしまわないと、来月の支店長会議がまたやってくるわけです。
来週こそ、来週こそ、そう思っていながらもステ看を捲くタイミングを完全に逃してました。
それでも、偶然なのか新規の問い合わせが多く、苦労せずにノルマが達成できたんですから
営業の世界は不思議なものです。
当時は、支店のノルマが達成すると「達成賞」という報奨金がついて、一般社員で4~5万円、
管理職で6~7万円も貰えたんですよね。
まさに「アメとムチ」そのまんまですよ。
そして支店長会議の席上で、ノルマを達成したせいか機嫌の良かった支社長におもむろに
「イシカワ、函館支店が今月ノルマを達成できた理由を言ってみろ。」と突然ふられ、
「うっす。ステ看・・・の効果が出たのかもしれません。」なんて、咄嗟にウソをついてしまったんです。
あわわ・・・
やべぇ、言っちまった。
つづく。
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毎度ありがとうございます!
いやな夢を見て目が覚めました。
大学時代に仲の良かった友人たちから、ちょっとしたことが理由でハブかれるという夢。
実はこれ、本当にあった話しなんですよ。
大学時代の友人もこのブログを見ているらしいので、登場人物などの詳細は割愛しますけど、
鶴岡で付き合っていた彼女と函館で一緒に住むことになって、生活するためにやっていたバイトが
忙しくて、ほとんどサークルに顔を出さなくなったり、そんな「付き合いの悪さ」が理由でした。
シカトじゃないんですよね。
ハブかれてるんですよ。
なんか話しかけても「あ、うん。」なんてよそよそしいんですね。
で、さーっと自分の周りから人が引けていなくなるんです。
負け惜しみじゃないけど、それならそれでこっちから媚びて近づくこともなかったし、
腹の中では「ふん!くだらねーやつらだな。」と実際に思っていましたし。
でも、時間が経てば、また自然な付き合いができるようにはなったんだけれど、
そういう「やられた側の記憶」というのは、無意識に心のどこかに残っているんでしょうね。
最近はSNSの普及で、当時の同期の仲間たちとも連絡をとれるようになりました。
おそらく、彼らは自分のことをハブいたこともハブいたつもりもないと言うでしょう。
4年間の中の、ほんの一瞬の出来事といえばそれまでなんですけどね。
もちろんその時、その一瞬だけで、その後は卒業まで仲良く遊んでいましたし、
今でも大切な同期・仲間だと思っています。
大学生なんていったって、所詮はまだガキなんですから。
社会人にもなっていない、仕事もしていない、税金も納めていない、選挙にも行ってない、
能書きばかりで大人になったフリをしているだけの中身は子どもです。
そして、自分もそんな能書きばかりの生意気な大学生だったと思います。
自分の場合は、野球部寮の地獄のような生活を乗り越えてきたという変な自負がありましたから。
「本気でぶん殴られたことも、立ち上がれないくらいにボコられたこともねーだろ。」
たかが大学のサークルごときの「ハブき」なんて、鼻くそみたいなもんですよ(笑
なんかそんな煮えたぎるような感情のまま目が覚めて、今は熱めのコーヒーを淹れて一息ついてます。
何かのお知らせなのかな、こんな夢を見るなんて。
みんな元気ならいいんだけれど。
たまに「マスターはリーダーシップを発揮して、人の輪の中心にいる人のイメージです。」
なんて言われることがありますけど、決してそんなことはありません。
たくさんのウソもついてきたし、人の気持ちを傷つけて踏みにじったり、不義理をしたり、
そういう自分が原因で周りから人がいなくなったり、そんなドロドロした生き方ですよ。
でも、そんな自分の生きてきた足跡を否定はしたくありません。
その時があって今があるわけですから。
証券会社から漁師までと仕事の数だけではなく、いろんな経験をしてきたという話しです。
なんか気分的にスッキリしない朝だなあ。。。
そんな朝があるのも日常なんですけどね。
今日も頑張ります。
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毎度ありがとうございます!
息子が昨日から合宿のため、今日から10日間は4時半に起きる必要がありません。
それでも今朝は5時で起きてしまいました(笑
もう生活リズムが完全にオッサンです。
ここ数日間は新しく「おでん屋」を開業する自分の姉からの依頼で、看板のロゴを作ったり、
塗装屋さんや看板屋さんや酒屋さんとの打ち合わせに忙しくしておりました。
店名や場所やオープン日程などの詳細は4月に入ってからご報告できるかと思います。
いろいろとしがらみもあって、不特定多数の見るこのブログではまだ公表できない事情もあるので、
詳細の気になる方はお店でこっそりお教えいたします(笑
やんちゃよりも小さなお店で、素人がイチからスタートする手作りなお店です。
このコロナ禍の中で、素人が始める新たな商売が成り立つのか、という不安は当然ありますけど、
自分はそれなりに需要はあると思っています。
もちろん本人の努力とセンスは必要ですけどね。
背伸びせずに「身の丈」でやればいいと思うんです。
自分もお客さんとして「おでん屋」で一杯やりたいですもん。
お店がオープンしたら、是非一緒にお付き合いください。
あ、でもそんな時間まではやっていないのかも(困
というわけで、今週も始まります。
いつもの一週間を穏やかに、そしてまた忙しく過ごせますように。
今日も頑張ります!
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毎度ありがとうございます!
今日は、先日ちょっとだけ匂わせたおでん屋の話でも書こうかと思ったんですけど、
あまりにもムカついて、どうしても書きたいネタがありまして。
昨夜帰宅してヤフーニューズを読んでいたら、毎日新聞の記事が載っていました。
横浜市の一部の市立小学校で、東日本大震災から10年となった3月11日の給食の献立として卒業などを祝う赤飯が予定され、学校関係者から不適切との声を受けて直前に差し替えられていたことが判明した。市教委の担当者は取材に事実関係を認め「配慮が足りなかった」と話した。市教委健康教育課によると、11日に赤飯が予定されていたのは市内約340校のうち戸塚、瀬谷、保土ケ谷、泉の各区と南区の一部にある計89校。赤飯は例年、卒業や進級を祝うために年度末に献立になる。今年も数日間に分けて市内全校で提供する予定だった。 数日前に、複数の学校の関係者から「どうなのか」と疑問の声が市教委に寄せられた。急きょ食材の納入業者などと調整し、別の日の献立と差し替えた。該当の学校の児童や保護者には10日に理由を含め説明したという。 献立は市教委の担当者らが年間予定を組む。秋に見直しをする機会もあるが、今回は直前まで11日の献立が赤飯ということは問題視されなかった。同課は「市として十分な配慮ができなかった」としている。
どう思いますか、これ。
340校のうちの89もの学校で卒業や進級を祝う給食の赤飯が、3月11日を理由に差し替えになるって、
どう考えても異常だと思いませんか。
それも東北から遠く離れた横浜の小学校で。
東日本大震災で甚大な被害を被った方々を想う気持ちはとても大切なことだと思うけれど、
だったら阪神淡路大震災や熊本地震、ほかにもたくさんの自然災害や天災が起きた日はどうすんの。
毎日が誰かの命日でもあるわけで、そのことと子どもたちが給食で赤飯を食べることのどこが
「不適切」で「配慮が足りない」ことになるんだって話しなんですよ。
そんなことまでして、実際に家族を亡くされたご遺族の方々は喜びますかね。
天国にいる方々は、子どもたちが健やかに元気に育ち、その節目を祝う赤飯を食う姿を見て
怒るとでも思ってるんでしょうか。
このクレームをつけた複数の学校関係者の方々は、普段どんな生活をしてるんですかね。
普段の生活のなかの何気ない会話の中で出る「笑顔」や、美味しいものを食べて「楽しい」とか
そういう感情を「何かの日」に置き換えて、その感情を押し殺して生活してるとでもいうんですか。
どうしても3.11だというなら「いただきます」の前に黙とうすることだってできる。
今の自分たちと同じ年頃の子どもたちがたくさん被害にあったことをしっかりと学びながら、
普段の何気ない生活を大切に感謝していきましょう、って教えるのが教育じゃないんですか。
そのことと、卒業・進級おめでとう!の赤飯となんの関係があるんですかね。
横浜で3月11日に生まれた子どもを持つ親御さんは大変ですよ。
お祝いのケーキを買うのにもコソコソ買わなくちゃならなくなっちゃう。
何でもかんでも不謹慎だの不適切だの、過剰に反応しすぎなんですよ。
特に、教育現場にはとんでもない思想や発想を持つ方々がたくさんいますからね。
命あるものが「今を生きる」ってどういうことですか。
今回の話しとは少しズレますけど、亡くなられた方の「意思」とか「遺言」とか
「言い残した言葉」とかってあるじゃないですか。
もしもですよ、もしもその故人からの言葉や遺言が、残された者の負担になるようなことならば、
そんなものに縛られて生きていく必要は全くないと自分は思っています。
生きていくということは答えは一つでは決してないし、想定外のことも人生にはたくさん起こるから。
社長やってた親の遺言で「会社のことはお前に任せた。」と言われても、会社経営に興味のない
息子にとっては苦痛なだけでしょう。
「オレが先に死んだら再婚はせずに、オレへの愛を貫いてほしい。」なんて言われても、
好きな人ができたなら、その感情を押し殺す必要もないでしょうよ。
今を生きる人にとって、自分らしく幸せになるために負担になるような言葉を残されたとしても、
そんなものに縛られて、狭い場所で息苦しく生きていく必要は全くありません。
たとえ聞かされたとしても、そのことを反故にしたからといって、どうなるというんですか。
お化けでも出るというんですか。
天国にいるものたちは、いつまでも悲しみ涙し塞ぎ込んでいる姿よりも、
その後を明るく活き活きと楽しく、そして逞しく生きる姿を見たいはずです。
人生の中で出会い、少なからずとも影響や刺激を受けて、その時間を一緒に過ごした現実は
決して変わるものでもないし、自分の心の中に思い出としてそっとしまっておけばいいんです。
悲しみの深さや、立ち上がるまでの時間は人それぞれです。
周りがどうこういう事じゃない。
横浜の子どもたちには、赤飯をモリモリ食って元気に育ってほしいと思うし、
これからも食べることの「楽しさ」や、食材の「有り難さ」を学んでほしいと思います。
あまりにムカついて、今朝はコーヒーを一杯も飲まずに一気に書き上げました。
これからコーヒーを淹れて、少し落ち着きます(笑
ではまた。