"北海道時代"カテゴリーの記事一覧
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毎度ありがとうございます!
これは、函館でサラリーマンをやっていた頃の話しで、以前にも書いた記事のリメイク版です。
当時、親会社がサラ金の「電話レンタル会社」に勤めていて、電話加入権72,000円が不要で
月々2,980円で固定電話が引けるという、学生や単身赴任者をターゲットにした新規顧客の獲得に
毎月厳しいノルマが課せられていたんですね。
当時はまだ通話料がかからないフリーダイヤルが珍しかった時代だったんですけど、
自分の支店に掛かってくるフリーダイヤルは市外局番のアタマ3桁でエリア分けされていたんです。
どういうことかというと、0120-▲▲▲ー◇◇◇というフリーダイヤルを回した場合に、
函館支店に掛かってくるエリアは013で始まる市外局番の地域と、015で始まる市外局番の地域から
自動的に振り分けられて電話が掛かってくるんです。
札幌のすぐ隣の「小樽」も0134ですから函館支店に、最果ての地「網走」も0152ですから
そのエリアからフリーダイヤルを回せば函館支店に繋がるというわけです。
もっとも直接来店や営業が行かなくとも、書類郵送で電話は全国どこにでも引くことは出来ますので、
電話応対のマニュアルはみな同じなんですけどね。
当時、新規の数字が伸び悩むと、毎月札幌で行われる支店長会議でつるし上げられるんですよ。
「お前、来月どうするんよ、コラ!どうやって数字を上げんのか言ってみろ!オイ!」みたいな。
ヘタ打てば降格・転勤当たり前ですし、実力があれば若くして支店長もありのイケイケの会社です。
23歳で入社して25歳で支店長になった自分は当時気合い十分でしたし、広ーい北海道で
片道12時間かけて函館から網走までトラックを飛ばして、電柱にフリーダイヤルの書かれた看板
(通称ステ看)200本を取り付けるためだけに0泊3日のアホみたいな強行日程で爆走したりして、
数字を上げることだけに毎月毎月必死だったんですよ。
ある年の10月の支店長会議の席で、前月の成績が最悪で1時間近くも説教された末に
「お前、来月の営業強化費を何に使うか、どうやって数字上げるか言ってみろ!」と詰められて、
「うっす。函館支店はステ看200本発注でお願いします!」なんて言っちゃった。
ステ看の届く11月なんて、北海道はもう完璧な冬ですからね。
それでも、後には引けないわけですよ。
11月の金曜の夜10時。
電柱に勝手に看板を取り付けるのは違法行為なだけに全身黒い服装で身を包み、
トラックにステ看200本を積んで「小樽」を目指していざ出発はしたものの、
目の前の1m先も見えないくらいの猛吹雪なんですよ。
部下の若いヤツもトラックの助手席で「これ、吹雪ヤバくないですか。」なんて不安そう。
雪は積もってはいないんだけど、横殴りの暴風雪がハンパない状況なんですよね。
こんな状況の中、車で4時間の「小樽」までは到底辿り着くことはできません。
「だめだ、今日のところは一旦引き返そう。」
そう判断して、計画は翌週に持ち越しにしたんです。
そして一週間後・・・
この年の北海道は記録的な大雪のためすでに雪が積もり、電柱には除雪の山が出来ていて
もうステ看を取り付けれる余地は1ミリも残っていない状況なんですよ。
それでも、スキを見て、目の前に積まれたステ看200本を「小樽」とまではいかなくとも
函館市内にだけでも何とか捲いてしまわないと、来月の支店長会議がまたやってくるわけです。
来週こそ、来週こそ、そう思っていながらもステ看を捲くタイミングを完全に逃してました。
それでも、偶然なのか新規の問い合わせが多く、苦労せずにノルマが達成できたんですから
営業の世界は不思議なものです。
当時は、支店のノルマが達成すると「達成賞」という報奨金がついて、一般社員で4~5万円、
管理職で6~7万円も貰えたんですよね。
まさに「アメとムチ」そのまんまですよ。
そして支店長会議の席上で、ノルマを達成したせいか機嫌の良かった支社長におもむろに
「イシカワ、函館支店が今月ノルマを達成できた理由を言ってみろ。」と突然ふられ、
「うっす。ステ看・・・の効果が出たのかもしれません。」なんて、咄嗟にウソをついてしまったんです。
あわわ・・・
やべぇ、言っちまった。
つづく。
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毎度ありがとうございます!
いやな夢を見て目が覚めました。
大学時代に仲の良かった友人たちから、ちょっとしたことが理由でハブかれるという夢。
実はこれ、本当にあった話しなんですよ。
大学時代の友人もこのブログを見ているらしいので、登場人物などの詳細は割愛しますけど、
鶴岡で付き合っていた彼女と函館で一緒に住むことになって、生活するためにやっていたバイトが
忙しくて、ほとんどサークルに顔を出さなくなったり、そんな「付き合いの悪さ」が理由でした。
シカトじゃないんですよね。
ハブかれてるんですよ。
なんか話しかけても「あ、うん。」なんてよそよそしいんですね。
で、さーっと自分の周りから人が引けていなくなるんです。
負け惜しみじゃないけど、それならそれでこっちから媚びて近づくこともなかったし、
腹の中では「ふん!くだらねーやつらだな。」と実際に思っていましたし。
でも、時間が経てば、また自然な付き合いができるようにはなったんだけれど、
そういう「やられた側の記憶」というのは、無意識に心のどこかに残っているんでしょうね。
最近はSNSの普及で、当時の同期の仲間たちとも連絡をとれるようになりました。
おそらく、彼らは自分のことをハブいたこともハブいたつもりもないと言うでしょう。
4年間の中の、ほんの一瞬の出来事といえばそれまでなんですけどね。
もちろんその時、その一瞬だけで、その後は卒業まで仲良く遊んでいましたし、
今でも大切な同期・仲間だと思っています。
大学生なんていったって、所詮はまだガキなんですから。
社会人にもなっていない、仕事もしていない、税金も納めていない、選挙にも行ってない、
能書きばかりで大人になったフリをしているだけの中身は子どもです。
そして、自分もそんな能書きばかりの生意気な大学生だったと思います。
自分の場合は、野球部寮の地獄のような生活を乗り越えてきたという変な自負がありましたから。
「本気でぶん殴られたことも、立ち上がれないくらいにボコられたこともねーだろ。」
たかが大学のサークルごときの「ハブき」なんて、鼻くそみたいなもんですよ(笑
なんかそんな煮えたぎるような感情のまま目が覚めて、今は熱めのコーヒーを淹れて一息ついてます。
何かのお知らせなのかな、こんな夢を見るなんて。
みんな元気ならいいんだけれど。
たまに「マスターはリーダーシップを発揮して、人の輪の中心にいる人のイメージです。」
なんて言われることがありますけど、決してそんなことはありません。
たくさんのウソもついてきたし、人の気持ちを傷つけて踏みにじったり、不義理をしたり、
そういう自分が原因で周りから人がいなくなったり、そんなドロドロした生き方ですよ。
でも、そんな自分の生きてきた足跡を否定はしたくありません。
その時があって今があるわけですから。
証券会社から漁師までと仕事の数だけではなく、いろんな経験をしてきたという話しです。
なんか気分的にスッキリしない朝だなあ。。。
そんな朝があるのも日常なんですけどね。
今日も頑張ります。
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毎度ありがとうございます!
大学1年生だった1年間、下宿生活を送ったことがある。
高3の9月には新潟の金融機関に就職が内定していたのを反故にして、
田中先生と親に無理言って行かせてもらった北海道函館市での大学生活だった。
下宿代は、当時でたしか1ヶ月5万5千円だったと思う。
平日の朝晩2食付で日曜日は食事が出なかった。
土曜日の夜はカレーかジンギスカンとメニューが決まっていた気がする。
高1からすでに実家を出て野球部寮で過ごしたものの、やはり食事の面を心配してか
オフクロが下宿でないと仕送りをしないと言い張り半ば強引に決めた大学斡旋の下宿屋だった。
その下宿屋は本館と別館の二棟があって、老夫婦がいるのが本館で、
その若息子夫婦がやっているのが、すぐ裏にある別館だ。
自分は、老夫婦のいる本館2階の階段を上がってすぐの201号室になった。
本館の住人は、全部で学生が5人。
自分の隣の202号室は室蘭から来た同期のナガオ。
203号室には函館高専の1コ年下の高専生。
204号室には短期大学に通う女子短大生。
そして1階の101号室には、すでに留年を繰り返して何歳かも分からない先輩がいた。
下宿生は風呂が付かなかったから男女が同居していたのかもしれないけど、
今考えると防犯もセキュリティもあったもんじゃないわけで。
洗濯機も1個しかなく、誰かが使っていれば次の人が洗濯機の前にカゴを置くルールだった。
風呂も銭湯が基本だけど、この頃はまだ車を持っていなかったから、近場のアパート暮らしの
同期に甘えてシャワーを借りていた気がする。
原チャリくらいないと生活に不便な丘の上の学生街で、ホンダの50CC「ダックス」を買った。
今もなお持っていたらゴリラやモンキーに次いでプレミアが付くであろう往年の名車だ。
大学4年間のなかで、一番大学に通った1年間だった(それでも出席率40%)ことを振り返っても、
大学1年生のときが最も充実していたことは間違いないと思う。
深夜の交通誘導いわゆる「棒振り」警備員のほかに、結婚式場のボーイや温泉旅館の布団敷きなど、
とにかくバイトバイトに明け暮れた毎日を送っていた。
特に温泉旅館の布団敷きのバイトは学生にはおいしくて、出勤と同時に社員食堂でメシを食って、
7階まである客室の1部屋1部屋の宿泊人数を確認して、ツアーバスで函館山の夜景を
見に行っている間に、2人1組になって布団を綺麗に敷いていく仕事だ。
呼吸を合わせてバッとシーツを広げ、上下同じように余白を折り曲げて布団の下に折り込むだけの
単純な作業ではあったけど、息の合わないヤツと組むと時間がかかって仕方がない。
枕カバーまでセットしてカーテンを閉めて1部屋がようやく完了だった。
すでにお客様のプライベート空間に合鍵を使って入室し、布団を敷くだけの単純作業だったけど、
脱いだばかりの服が散らかっていたり、かばんのチャックが開いていたりと、ちゃんとした
道徳観と使命感を持っていないと学生には少し危うい仕事だったのかなと思う。
そのせいか、今でも旅館に泊まるときには貴重品は絶対に持ち歩くか金庫にしまうし、
カバンやバックはできるだけ部屋の見にくい場所に置くクセがついてしまった。
(もちろん旅館宿泊が危ないという話ではありません。)
メシは食べれるし、仕事が終われば修学旅行客を装って風呂にも入ってこれたし、
貧乏学生には天国のようなアルバイトだったのは言うまでもないだろう。
そして1年間で小遣いや生活費で使った金額の他に50万円を貯めて、下宿生活に別れを告げた。
大学2年からは家賃4万5000円のアパート暮らしを始め、38万円で買ったマイカー持ちと
生活の自由度はMAXに変化していった。
親からの仕送りの金額は下宿生活と変わらないことを条件に説得したため、引越しと同時に
ガソリン代やアパートでの食費を稼ぐために、ますますアルバイトに没頭する生活になり、
大学3年と4年の2年間は、テスト以外ではほとんど講義を聴いたことがない。
テストは、意味のない言い回しで無駄に理屈っぽく「であるからして、こうなるであろう。」
的な論文調の文章を書いてなんとか乗り切っていたし、それでもダメなら直接教授に日本酒を
持って行って「先生、お願いしますよ~」と酒を酌み交わして追試で単位を獲得するという、
大学時代にすでに「癒着」という処世術も自然に身につけていた(笑
ある意味それだけ面倒見のいい大学だったし、心の広い教授が多かった古き良き時代だったと思う。
もしも大学時代に後悔というか、やり残したことがあるとすれば、何かしらの国家資格を
取っておくべきだったと、今でも心の底から思っている。
教員免許や会計士は、大学でしっかりと勉強しておかないと絶対に取れない資格でもある。
その職業になりたいかなりたくないか、就いたか就かないかではなく、大学に行かなければ
取れない資格を取っているという大学生活の証みたいなものが何もないのが心残りなのだ。
たしかに視野が広がり、たくさんの貴重な経験もさせてもらった。
大学に行かなければ知り合わなかった仲間もたくさんいるし、函館は第二の故郷だと思っている。
アルバイトの経験や、時間とお金の管理などすべてにおいて自分自身の自己管理が培われたのも、
大学の4年間だったというのは間違いないところでもある。
結果的には、やりたくないことはやらず、やりたいことだけやっていた自堕落な4年間だったかも
しれないけれど、人生において貴重な時間ではあったという話しだ。
4年間という時間の充実感と少しの後悔・・・
将来の自分の姿が見えるのならば、あの時あの時間に出来たことは他にもあった気がしてならない。
あの6畳一間の下宿生活は、まさに期待と不安とが入り混じった初々しい時間だったと言える。
あれから30年の時が経った今ても、入学式に着て行ったJプレスの紺色のブレザーは
今でも大切にクローゼットにしまってある。
もう絶対に着ることが出来ない細身のブレザーを見るたびに、いつになるかは分からないが、
また時間があれば大学時代の思い出話を回想してみたいと思う。
大学時代のレポートを思い出して今日は論文調に書いてみました。
先生、これでなんとか単位を、単位をお願いします(笑
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毎度ありがとうございます!
一週間が終わり、気がつけば11月も終わりましたね。
今年も残り1ヶ月・・・大掃除に年賀状の準備にと、なにかと慌しい年の瀬になるでしょう。
昨日は当直明けのカミさんと吹浦漁港までドライブに出掛けました。
その目的は「鮭とば」を買うこと。
鮭とばは、産卵で溯上してきた今の時期の天日干しが一番旨いです。
20代前半、東京の証券会社を辞めて、しばらく北海道の水産会社に勤めていたことがあります。
噴火湾に面した小さな漁村で、昆布漁で船に乗ったり、スケトウダラの加工や養殖ホタテの耳吊り
なんかもやってました。
セリで落とした魚やイカを発泡に詰めて、函館の朝市に保冷トラックで配達するのも自分の仕事です。
ついこの間まで、始発の常磐線に飛び乗り、東京の兜町でスーツにアタッシュケースを持って
ドトールでコーヒーとサンドイッチを買って会社のデスクで日経新聞を読みながら朝食を食っていた
日々がウソのように、北海道の小さな漁村での生活がスタートしたんですよね。
何でもカタチから入る性格なんで、赤いハイネックにドカジャンを着て白いゴム長にパンチパーマ、
トラックから流れる音楽はサブちゃんと鳥羽一郎が定番というこだわりようで馴染む馴染む(笑
格好は一丁前のくせに、敷地内で「フォークリフト動かせるか?」って聞かれて「ウッス。」
なんて調子よく答えたものの、スケトウが満杯に入った大きな枡を窓から流し入れる際に
サッシに引っ掛けてガラスごとスケトウをひっくり返して、加工ラインを全部止めて怒られたり。
でも、生きている実感はしたなぁ。。。
将来のことや先のことなんて何も見えなかったけれど、毎日が充実していたのも事実。
夕方4時には、もう酒飲んでるんだもん(笑
そんなときに、自分が作っていたのが「鮭とば」でした。
本当は風通しのいい軒下で作るものなんですけど、ウチの会社は天日干しでやってましたね。
天日といっても日差しは強くない冬の北海道の天気ですから、とにかく雨や雪で濡れるのだけは
絶対にダメだと教えられていたんです。
長い物干し竿のようなポールに、さっと塩漬けして四つ割きにした鮭のしっぽを引っ掛けて
一週間から10日は乾燥させていきます。
最近の鮭とばは、仕上げに燻製スモークをかけて小洒落たものにグレードアップされて
ソフトスモークなどと高級珍味扱いされてますけど、あんなのは本物の鮭とばじゃないですよ。
本格派はもっと硬くてしょっぱいヤツ(笑
そんな本格的な鮭とばを買えると聞いて、吹浦漁港まで足を延ばしてみました。
到着してみると、売店やショップなどは一切見当たりません。
トラックやリフトが慌しく動き回り、気合いの入ったお兄さん方が忙しそうにしてるご様子。
車を止めてひと声かけようと車から降りると
「今、そこにトラック入るから!」と言われ、恐るおそる
「あ、すいません。あのー、鮭とばって買えるんですか?」
「ここで売ってるよ。」
と指差された天井を見上げると、そこにはソフトスモークなどという人気取りではない
漁師が作る本格的な鮭とばがたくさん吊るしてあったんです。
間違いない!本物だ!
1本1000円だというので3本を購入したら、ちぎれて売り物にならないヤツを
2本もサービスしてくれたんですよね。
あざーっす!嬉しいです!
帰りに、ケンちゃん通に言わせると遊佐のケンちゃんラーメンが一番旨いというので、
普段はケンちゃんが嫌いなカミさんを説得して、初めて「遊佐ケン」の暖簾をくぐりました。
うわさ通りに、旨い!
しかもケンちゃんなのに、麺が細い!
あのびろびろのワシワシ麺が嫌いなカミさんが「細麺で美味しい!」なんて
ケンちゃんラーメンを食いながら言うんですから、なんだか調子狂っちゃいます。
ま、喜んでくれたのならいいんですけど。
帰ってきて、さっそく買ってきた鮭とばを1本レンジでチンして試食。
しょっぱーい!
でもこれですよ、これ!
これと熱燗片手に「北の漁場」が流れたら、間違いなく泣いていたと思います。
高血圧の薬を飲んでいる身体を心配して「あんまりしょっぱいから、お茶漬けにでもしたら?」
なんて呟いてましたけど、まったく聞こえないふりをして酒も飲まずにそのまま1本食っちゃいました。
極寒の中で、漁師が荒れた手で塩漬けにした鮭とばの仕上がりに細かいこと言うんじゃねーよ、
などとは一切口には出さずに、若かりし北海道時代の自分を思い出してました。
まだまだたくさんありますので、食べたい方がいらっしゃいましたら一声かけてください。
メニューにもホワイトボードにも載せませんので。
ただ、高血圧の方はご注意ください。
自分はこのくらいが普通だと思いますけどね。
素敵な休日をお過ごしくださいませ。
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毎度ありがとうございます!
お知らせが遅くなりましたが、先週から「煮込み」の販売を再開しております。
例年ですと、夏の風物詩「えだまめ」と入れ替わって煮込みを作り始めていたんですけど、
今年は枝豆の収穫が遅くなったこともあって、9月に入ってからもメニューから「えだまめ」
を外さずにいたんですね。
が、さすがに朝晩は少し肌寒くなってきて、自分自身が煮込みが食べたくなってきました。
自分が食べたいといことは、きっとお客様も食べたいでしょうということで、また皆さまに
「軟らかくて美味しい!」と言っていただけるように、また煮込みを作る日々が始まりました。
煮込みを作っている間は火のそばを離れられませんので、ブログの更新がしやすくなります(笑
いや、更新できるように頑張ります、かな。
先日は「鉄道の旅」でしたけど、今回は「高速の旅」でも書いてみたいと思います。
「陸の孤島」とまで言われた鶴岡に18歳まで住んでいた自分は、普段の生活の中で
高速道路なんかとは全く無縁の生活を送っていたんですね。
もちろん、車の免許を取るために通った教習所でも、高速教習の実技講習はありませんでしたし。
大学生になり、東京や神奈川からの同期と遊ぶようになって、そいつらの実家まで遊びに行こうと
冬休みに車で東北自動車道を突っ走ったのが初めてだったはずです。
当時はスタッドレスタイヤなんてまだなくて、スパイクタイヤの時代でした。
車をいじるのが好きだった奴らは、フルピン仕様だったりマカロニピンの打ち込みだったりして、
雪のない路面を走るのを極力嫌がっていたものです。
高速走行でピンが飛ぶのも嫌なんですけど、フルピンで120km出して8時間も走るなんて
グリップが効かなくて滑りますから、 まさに自殺行為そのものなんですよね。
さらに、都内でスパイクタイヤをシャーシャー鳴らしながら走るのもカッコ悪いということで、
仙台過ぎたあたりのPAで、ノーマルタイヤにタイヤ交換をするという準備の良さを見せますw
わざわざトランクに4本積んでいくんですからねぇ。。。
ライトに照らされ飛び去ってゆく案内板の文字を眺めながら
青森からの670kmの高速の旅を楽しんだのを思い出します。
あの頃はスピードが100kmを越すと、警告音がキンコンキンコン鳴って
うるさいんで、その音を掻き消すようにコンポのボリュームを上げて
走らなければならなかったのも懐かしいですよね。
当たり前の事だけど「日本のどこに行っても、そこで暮らす人々の日常があるんだなぁ」
みたいな、自分の中にある旅情的な感覚が好きでした。
大学時代の友人達とは、今はほとんど連絡を取っていませんし、なかなか会う機会もありません。
どうしてるんだろうな。
たまには電話してみようかな。
よーし、煮込みが出来上がりました。
これから買出しに行ってきます。
これが自分の日常です。
いい天気になって、良かった良かった。
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毎度ありがとうございます!
昨日深夜にYouTubeを眺めていたら「列車の旅」の動画を見つけて、
気がつけば1時間も見入ってしまってました。
某政治家が列車で旅する番組だったんですけど、列車の窓から見える山や海の美しさや、
街から街へと移り行く景色を見て「今や列車の旅がなくなって、それは移動になってしまった。」と
嘆いていたのが凄く印象に残っていました。
高校を卒業して函館の大学に進学し、学生時代の帰省は国鉄が主だった時代です。
大学へ入学した頃は、まだ青函連絡船がありましたから、列車と船の旅で10時間くらいかけて
鶴岡に帰省していました。
早く鶴岡に帰りたいという逸る気持ちとは裏腹に、10時間という長い長い時間がまさに
鶴岡と函館の距離を物語っていて、それはまさしく旅と呼ぶにふさわしいものだった気がします。
時刻表を読んで面白いと思うようになったのもこの頃ですし、暇つぶしにと駅のキヨスクで買った
西村京太郎シリーズにハマってしまって、十津川警部の推理には随分と乗り換え時間の退屈さを
助けてもらったものです。
夜中の連絡船に乗って、二等客室のカーペットに横たわり、青森の街の灯りが見えてきたら
デッキに出て、夜が明けてくる朝焼けの中で着岸のために慌しく動き回る船員たちを見るのが、
いつの間にか連絡船での習慣になっていました。
青森からは早朝出発の特急白鳥に乗るのがいつものパターン。
白鳥の座席上に荷物を押し込み、駅のホームで立ち喰いうどんを食うのが一番の楽しみでした。
4時間の船旅から一転し、朝方の気だるいなかで食べる温かいうどんの味は、
たぶんこの先も一生忘れることはないでしょう。
青森からは寝台特急日本海も出ていたんですけど、できるだけ夜中に移動したかった自分は
上りは「白鳥」で、函館に戻る下りは「日本海」で、というパターンが多かったですかね。
日本海のB寝台は、酒田までの寝台料金を払うと青森までそのまま下段ベッドを自由席として
使って行けたんで、ちゃっかりベットに寝ながら行けるという最大の利点もありました。
確かに今なら考えられない時間の使い方ですし、限られた休日の中での移動手段としては
非効率的なのかもしれません。
だけど、そういう時間を使いながら東北ー北海道を旅したおかげで、日本の広さを実際に
感じることができましたし、今となっては本当に貴重な経験だったと思います。
時刻表片手に、ひとりで列車に飛び乗り、乗り換えホームにスムーズに行くことが出来たら、
なんとなく大人になった気がしたものです。
腰が痛くなるからという理由よりも、ゆっくりと移動に時間をかけれる休みが
取れない大人になってしまった自分を少し寂しくも感じます。
鉄道オタクではありませんが、なんだか今夜は、
あの頃の列車の旅の夢でも見そうです(笑
これから風呂に入って、温まってから寝ます。
おやすみなさい。