"中学時代"カテゴリーの記事一覧
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毎度ありがとうございます!
先日の日曜日、49歳の前厄にあたっていることから急遽「厄払い」をやろうという事になって、
中学の同級生に声をかけ、男女総勢35名で無事にご祈祷を終えることができました。
いつの間にか自分が幹事長にさせられてましたけど、
地元にいる男女数人に声をかけ、そこから電話とメールだけという
お粗末な連絡手段にもかかわらず、男女35名の参加というのは
47歳という年齢を考えたら驚くべき参加率だと思うんですよね。
残念ながら都合により欠席という方が15名はいましたんで、
みんなが参加できれば50名。
学年全体で約280名くらいでしたから、地元とはいえこれだけの人数にサッと連絡がついて
これだけのメンバーがパッと集まるわけですから、このあたりがさすがに4中二期生なんですよ。
校内暴力に授業ボイコット、警察沙汰や新聞やテレビの取材も来てたくらい、
傍から見れば荒れた中学校で有名だったんだと思います。
学区編成に伴い新しく出来た綺麗な校舎だったにもかかわらず、
トイレの壁はすべてぶっ壊してありませんでしたし、毎日非常ベルが鳴り響き、
各階備え付けの消火器なんておそらく使えるものは一個もなかった気がします。
先生や他校とのケンカも日常茶飯事でしたし、盗んできた自転車で校舎内を走り回ったり、
給食時間の前には給食がないという、本当に好き勝手にやっていた中学校だったんです。
でも、今のような顔の見えない陰湿なイジメはなかったんですよね。
分かりやすい時代だったんです。
今でも「4中の出来た当時の卒業生。」というと、大体が「あー、あの頃の悪い4中ね。」と言われます。
悪いというよりも、男も女も仲が良かっただけだと思うんですよ。
特にうちのクラスは、勝手にキャンプを企画して、田川コミセンに男女全員で雑魚寝で泊まったりして
勉強以外は本当にまとまっていたクラスでしたもんね。
合唱祭でも、唱の練習なんかよりも、文化会館のあの大ステージで寸劇をやりたくなって、
勝手に「劇団わかくさ」を名乗って、全校生徒の前で音響を使ってくだらない劇をやったりしたりして。
それはもう合唱祭じゃねーだろうと(笑
でも面白そうじゃん、目立つんじゃねーか?みたいな(笑
だから、誰かが何かをやり始めるとみんながそれにに乗っかって全体が動いちゃって、
結局は先生の手に負えなくて対立・対峙するという、そんな他愛もない中学時代だったんです。
昔の学生運動みたいなもんに似ているのかもしれませんね。
みんなで「反対!反対!」を叫んで、大人や権力に反抗していくその一体感が止められないんですよ。
その同級生の結束力が、大人になっても繋がっていて、「何かやろう!」と誰かが言い出すと、
あっという間に「やろ!やろ!それ、面白そうじゃん!」てな具合で、まとまっちゃうんですね、きっと。
ハゲたり太ったり白髪になってたり、バツイチどころかバツ2はいるわ、シングルマザーはいるわ、
化粧がすごい美魔女みたいなのは来ちゃうわ、結婚してないやつらはお見合いみたくなっちゃうわで、
それぞれのいろんな30年という時間の経過を目の当たりにした反省会も、
想像以上に楽しすぎて「次は同窓会をやろう!」なんて、その場で盛り上がってましたもんね。
楽しい時間でした。
みんなの笑顔が嬉しかったし、久しぶりに中学生に戻ったみたいで
なんとなく気持ちだけでも若返りました。
荘内神社本殿にて厳かな雰囲気のなか、厄もしっかりと祓って頂いたし、
これからもまだまだ頑張っていかないとなりません。
「ヨッシャー!頑張るかぁ!」と気合いを入れたまではよかったものの、
ご祈祷してもらった名前入りの厄払いの御札を二次会会場の鮨屋に忘れてくるという、
ご利益もぶっ飛ぶ大チョンボを犯してしまっておりました(笑
早いうちに取りに行かないと、バチが当たるかもな、こりゃ。
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毎度ありがとうございます!
息子のスポ少入団の準備のため、なにかとスポーツショップに行く機会が増え始めました。
改めて「野球」ってお金がかかるスポーツですよね。
グローブ・スパイク・アップシューズ・Tシャツ・ユニホーム・帽子・バック・・・etc
小物も挙げたらキリがありません。
で、今日は、中学時代の思い出話しというか“カルトネタ”をひとつ。
今や、プロ野球選手まで輩出した我が母校、「鶴岡第四中学校野球部」の
帽子のマークを考えたのは、何を隠そう、この私です(笑
Tsuruoka FourのTとFを左右に組み合わせたデザインで、美術の時間に考えたんですよね。
というのも、統廃合で新設された鶴四中の野球部には、まだユニホームすらなく、
初代監督のハラダ先生が美術&担任だったこともあって、
「もうすぐ大会が始まるのよな。ユニホームは漢字で【鶴四】でいいけど、帽子のマークがなぁ。」
「先生、なんか、考えてあげよっか。」
「おう!わりーけど先生忙しいから、お前、考えてくれや。」
「うん、いいよ。どうせならユニホームのマークも、もっとカッコいいのにしたら?」
「予算がないから、ユニホームは簡単なのでいいんだ。」
「ちぇっ。」
というわけで、美術の時間に考えたあのデザインが、
そのまんま採用されたんです。
当時は、一中が【エンジ】、二中が【グリーン】、三中は【ブラック】が
基調色でしたんで、重複しない色ということで四中は【スカイブルー】に
決まったんですよね。
今は、色使いもデザインも随分とカッコいいユニホームになってますけど。
あれから30年、ユニホームやチームカラーの変還はあっても、帽子のマークだけは継承されていて、
12年前に鶴岡に戻ってきても、未だにあのマークだったことに正直驚きましたもんね。
もしも、息子が中学でも野球を続けてくれたら、嫌っていうほどこの話をしてやるつもりです(笑
ちなみに、当時のハラダ先生は、野球のルールをまったくと言っていいほど知らず、
当然ノックもやったことがなく、バットにボールがまったく当らないんですよ。
練習時間は、ひたすらバックネットに向ってノックの練習をしていて、
自分たちは、選手自らが交代でノックしていたもんです。
試合前のシートノックは、全員にボールが飛ぶ前に時間が終わったこともありましたし、
サインもなにもありませんでしたもんね。
全員が本能のままで試合に挑むという、テキトーでいい加減なチームでした(笑
「やんちゃ」を開業してから、1コ下や2コ下の後輩や、もっと下の四中野球部出身者とも
日常でも顔を合わす機会が増えました。
OB会とまで大袈裟にはしなくとも、なんかみんなで集まってワイワイやってみたいものです。
すでに、親子二代で鶴四中野球部出身なんていう人もいますもんね。
だれも、言い出さないなら、自分が・・・いや、止めときます(笑
1コ下のナンバか、2コ下のスガイに任せます。
きっと、盛り上がると思うんですけどね。
いいオッサンになって、いいオヤジになったあの頃のメンバーたちと、
日本酒片手に盛り上がってみたいものです。
さーて、今日の鶴岡はいい天気になりました。
空き地の土も顔を出し、いよいよ春なんだなと心躍ります。
今日も一日、頑張っていきましょう。
3月17日追記:
同じ町内で中学の後輩のタカヤマくんのfacebookから、四中の帽子の写真を分けてもらいました。
タカヤマくん!ありがとうね~ε=ε=ε=( ^o^)/ -
毎度ありがとうございます!
日々の思っていること、感じたことを、好き勝手に書きなぐっているつたないブログですけど、
こんなブログでも、鶴岡の様子や共通の知人の様子を垣間見れるということで、
楽しみにしてくれる方々の声もたくさん頂戴しているんですね。
あえて、少し前の話しではありますけど、大晦日に亡くなった同級生の話しです。
小中学校と同級生だったマサシ、いや「マナミ」が亡くなったと一報が入ったのは大晦日のことでした。
中学校ではクラスメートにもなりましたし、自分たちの代では野球部のキャプテンだった男です。
鶴岡四中野球部時代は、自分がレフトで、マナミはセンター。
足の速いマナミには、随分と守備では助けてもらいました。
スポーツ万能で頭も良く、いつも笑っていた「マナミ」が亡くなったなんて、本当に信じられません。
恒例の正月ゴルフのため仙台から戻った日の、
1月4日のお通夜に参列させていただきました。
45歳という若さでの旅立ちはあまりにも早く、
喪主を務めた奥様の涙でかすむご挨拶の言葉に、
思わず涙がこぼれそうになりました。
マナミとの再会は、2年ほど前に会社の人たちと偶然に「やんちゃ」に来てくれたのが最初でした。
「ノリがやってんの、知らねっけ~。今度、家族みんなで来てもいい?」
「もちろん。是非、みんなで来てくれのぉ。」
なんて会話しながら、ボトルを入れたその後も2~3回は顔を出してくれていたんですよね。
子供の頃と少しも変わらずニコニコ笑うその表情に、こっちまでもがつられて微笑んでしまうくらい
温厚で優しかったあのマナミが亡くなったということは、あまりに受け止めにくい現実でもあったんです。
お母さんにお伺いしたところ「大腸ガン」だったとのことで、若さゆえに進行も早く転移を止めれず
「抗がん剤治療にも頑張ったんだけど、ガンには勝てなかった。」と悔やんでおられました。
お通夜の会場前に流れる生前の写真のスライドショーを拝見させてもらいながら、
飲みに来たときのマナミや、同じユニホームを着て戦った頃のマナミを思い出していたんです。
活発だったヤツだけに、本当に今でも信じられません。
この歳になってくると、今度はいつ自分の番になっても、不思議ではない年齢なのかもしれません。
自分も昨年、おふくろの最期を看取ったせいか、「死」というものに対する考え方が
より身近に感じるようになった気がします。
そのうちに、今度は自分にお迎えが来るのかも知れない。
だけど、そのことに怯えて過ごすのはやめようと思うんです。
いつか自分にも訪れる「死」があるんだとしても、そのギリギリまで楽しく笑って過ごしたいものです。
むかし聞いた誰の言葉か知りませんけど、心に残る言葉があります。
「あなたが生まれたときには、
あなた一人が泣いていても、
回りの人たちはみんな笑っていたでしょう。
ならば、あなたが死ぬときには、
回りの人たちみんなが泣いていても、
あなた一人は笑って死ねるような人生を送りなさい。」
今日を精一杯生きるということ・・・
その答えは簡単ではないのかも知れないけれど、楽しく笑える人生であるべく今を生きております。
今日は、重たい内容になってしまいました。スイマセン。
マナミのご冥福を心よりお祈りいたします。合掌
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毎度ありがとうございます!
昨日は、東京に住む同級生イタルが訪ねてきてくれました。
小学校から中学1年まで一緒だったんですけど、お互いに野球部だったこともあって
4中vs1中・鶴商vs羽黒と対戦相手となってからは、親しく話す機会が無くなってたんです。
最近、ブログを通じてちょいちょいメールをくれるようになり、正月休みの帰省を利用して
「やんちゃ」に顔を出してくれたのでした。
子供の頃の同級生と再会するときは、正直、少しだけ構えてしまう自分がいます。
相手も大人になっているし、こちらも大人になっているわけです。
子供の頃と同じように、ガキくさい話しばっかりで、遠慮なくグイグイくる距離感のないヤツもいるし、
子供の頃の印象から随分丸くなって、それなりの歳のとり方をしていて嫌味のないヤツもいます。
正直、イタルは個性が強いヤツでしたんで、どんな大人になっているか会うまで不安だったんです。
でも、仕事の話しや親の話し、今までの歩みを聞いてみると、凄く苦労しているのが分かって、
自分自身もいろんな事をしてその時を必死に生きてきましたから、
お互い30年という空白の時間があっても、共感できる部分もたくさんあったんですよね。
イタルのブログからは、中々見えてこないアイツの生き様を肌で感じました。
自分はテレビで見るような世界には、実際に口で言うほど興味はありません。
芸能人と仕事をしたり、有名人が身近にいる環境を、そんなに羨ましいとは思わないんですよね。
要は、「中身」だと思うんですよ。
「どんな仕事をしているか。」じゃなく
「どんな生き方をしているか。」です。
おふくろさんの面倒や仕事の環境の変化や、なかなか思うようにいかない現実でも、
「まずは一生懸命頑張っさげの。」というイタルの庄内弁に、心救われた気がします。
んっ、そうか!
なんか、30年という時間をあまり感じさせずにスッと身の上話しを聞けたのも、
アイツがメールも会話も全部「庄内弁」で話すからなんだな、きっと。
普段は標準語での生活なんだろうけど、帰省時や電話はバリバリ庄内弁という潔さが
心の中にある「我、庄内男児なり。」という想いを感じてしまうからなのかもしれません。
もう一人、イタルと似た同じような性格の友人「タダシ」がいるけど、
そう言われれば、どちらも「國士舘大學」だったっけ。
東京に行っても、庄内人魂までは売らねーぞ!みたいな熱いヤツが行く大學なのかもしれませんね。
田舎に帰ってきてもカッコつけて標準語で話して、芸能人の名前なんか出そうもんなら、
ただのチャラけた嫌味なオッサンにしか映らなかった気がします。
自分にとってはとても懐かしく、大人になったイタルを感じた、いい再会でした。
イタルには、どう映ったのか・・・それは聞かずにそっとしておこう(笑
今度は東京で会えるかもな。
そん時は、たっぷりご馳走しろよ!(笑
こんなオレでも、遠い鶴岡から応援してっさげの!
「東京でも、元気で頑張れの~!まだ来いよ~!」
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毎度ありがとうございます!
昨日は、中学時代の1コ下の後輩達が顔を出してくれました。
ナンバ・ツトム・ヒロシ・シンの4人組で、そのうち3人が野球部だったんですよね。
もう30年近く前の先輩を訪ねてきてくれるとは、本当にありがたいことです。
しかし、後輩というのは本当にいろんな事を覚えているもんですね~。
いろいろと、やった方よりやられた方が覚えているというのは、
いつの時代も共通の話しです(笑
後輩達の話を聞きながら、中学時代の自分はそんなにヒドイ先輩では
なかったようで、ひと安心しました。。v( ̄ー ̄; アブネー
いくつになっても、こうやって肩を組んで飲める仲間というのは大切にしないといけません。
自分と同期の野球部連中も結構地元にいますし、2コ下もスガイのネットワークでなんとかなるんで、
一度、梅木先生を交えて「鶴岡四中野球部OB会」をやろうという話で盛り上がりました。
自分にとって、鶴商に入ってからの3年間のインパクトがあまりにも強すぎて、
好き勝手にやっていた中学時代の記憶が曖昧で、あまり覚えていない事のほうが多いんですよ。
でも、自分のカミさんとも同級生なもんで、今朝になってアルバムを引っ張り出してきて再確認。
当時の彼らの顔を見て、「おー、いたいた!分かった!」と改めて思い出してます(笑
当時は、野球よりも面白いことがありすぎて、ちゃんと野球をやった記憶がないんですよね。
で、そのまま県立校にすべって、マスクしたまま鶴商の練習に参加したくらいバカでしたから、
中学時代にもう少しまともに野球をやっていたら、違う人生になっていたのかもしれません。
・・・いや、なってないな、やっぱり(笑
行くべくして鶴商だな、あの頭じゃ、どう考えても・・・(T_T)
そういう学生時代の繋がりを大切にしながら、生まれ育った鶴岡で暮らすことに、
平凡な生活の中にある幸福感を感じてしまうわけです。
現に、こうやって40代半ばになろうかという後輩達が、訪ねてきてくれるわけですから。
今は息子の小学校の先生をしているナンバとは、先日の運動会の打ち上げの席で、
一升瓶を囲んで肩を組んで酒を酌み交わした仲でしたから、
「やんちゃに行きたいと思ってましたけど、なかなか一人で行く勇気がなくて・・・。」
なんて言われたときは、ガクッとズッコケました。。(≧σ≦)キガルニ,コイヨ!
10月にまた市民大運動会で綱引きがあるそうなんで、腰が心配ですけど、
都合がつけば参加しようと思います。
結局は打ち上げが楽しみなだけなんですけどね。
また旨い日本酒を片手に、乱入しようと思います。
暑い日が続きますが、熱中症にはお気をつけて、今日もお一日頑張りましょう!
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毎度ありがとうございます!
昭和57年、鶴岡第四中学校の卒業記念にアルバムと一緒に一枚のレコードが配られました。
「第2回音楽祭」の時の3年生各組の合唱を録音したものです。
卒業以来、全然聞いてなかったんですけど、娘の合唱祭練習の話を聞いてるうちに聞きたくなりまして。
オーディオもステレオからコンポに変わって、今じゃレコードを聞ける家庭は少ないと思うんですよ。
実際、我が家でもレコードを聞ける環境がなくて、聞きたくても聞けずにいたんですよね。
でも、あの頃の自分達の歌声を聞きたい!
というわけで、同級生で電気屋に勤めてるゴンビにお願いして、
レコードからMDにダビングしてもらいました。
こうなれば、車でも家でもいつでも聞けるわけです。
いやぁ~、改めて中学時代の歌声を聞くと、
恥ずかしさの中に感動を覚えますねぇ。。。
当時はただがむしゃらに歌っていたのが、全体のバランスや強弱、ピアノの上手さや速さまで
この歳になって改めて気付く事が、たくさんあるんですよ。
何よりも歌詞が理解できるようになってるから、心への響き方が当時とは全く違うんですよね。
以前、車の中で大音量でこのMDかけてたら、同級生にドン引きされましたけど。
「お前、車で何聞いてんのよ!ぎゃははは」
「バカヤロー。車の中が一番ボリューム上げて聞けるから、細かいトコまで分かっていいんだって。」
「お前、審査員かよ。ぎゃははは」
「うるせーよ。フン!」
あーやだやだ。心がすさんでいるヤツには、透き通る歌声が響かないんですよね(笑
何と言われようとも、この貴重で素晴らしい卒業記念品に感謝しております。
1組「紀ノ川」
2組「摩周湖は碧く」
3組「空駆ける天馬」
4組「祖国の土」
5組「グローリア」
6組「河口」
7組「灯を高く掲げて」
ちなみに、最優秀歌唱賞は、我が4組「祖国の土」でした。
もう一回、あのクラスメイトたちと歌ってみたいです、もう一回。
鶴四中同級生の諸君。
実はこのMDを欲しいという者は、恥ずかしがらずに申し出たまえ。
我が家のダブルデッキで、コピーしてしんぜよう。
おーっほほほほ。