"北海道時代"カテゴリーの記事一覧
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毎度ありがとうございます!
若い頃から仕事も遊びも、いろんなことをやってきた自分ですけど、
今頃になって少し後悔じゃないですけど、あのままやっていたらなぁと思うことがあるんですよ。
それは、大学の応援団なんです。
憧れの北海道に渡り、ようやく野球地獄から開放され、これからの4年間は楽しいキャンパスライフが
待っているはずだと胸躍らせて入学式に出席したわけです。
その数日後、各体育会の新人勧誘が行われている最中、
自分は不運にも「応援団」の勧誘につかまっていました。
その勧誘は、「入団申込書」に署名するまでしつこく付きまとわれ、
アパートや下宿にまで押し寄せて無理やり名前をかかせるまで
帰らないという、強引なものだったんです。
それでも、高校時代は応援団に対して好意的な印象が強かったですし、
大学では野球をやるつもりもありませんでしたから、半ば覚悟を決めて入団申込書にサインして
体育館で校歌や応援歌の振り付けを覚えさせられたんですね。
ただ、入ってはみたものの、楽しいはずのキャンパスライフが大学内は学ラン着用、
先輩には絶対服従という拘束があまりにもイヤで、何とかして辞めることを画策していたんです。
そして、入学から1ヶ月後のGWに、春季リーグの応援をバックレて鶴岡に帰省しちゃったんですよ。
連休が明けて、退部を申し出るために恐るおそる部室に顔を出すと、
先輩達が落ち込んだ顔して集まってるんですね。
聞けば、同じように行き過ぎた勧誘が原因で、他の1年の親から大学側に苦情が入り、
当面の間、活動自粛・勧誘禁止・入団申込書は無効という通達が出されていたんです。
自分たちの入団申込書も、全て取り消されて応援団とは無関係とされ、
その後も、その通達が解かれる事はなく、そのまま自然消滅的に大学から応援団がなくなったんです。
辞めたかった自分としては超ラッキーな展開だったんですけど、
なぜか自由の身になっても、面倒を見てくれるのは団部の先輩方が多かったんですよね。
ちなみに、自分が新卒で入社した証券会社も、団部の先輩を訪ねて企業訪問した際に
その先輩から「ウチで一緒に働いてみないか!」と声をかけて頂いたのが決め手でしたし、
入社してからも、退職するときも、親身になって相談にのってくれたのは、その先輩だったんです。
応援団員としては僅か1ヶ月の在籍でしたけど、あのまましっかりとやっていたら、
きっと違う人生になっていたかもなーなんて、最近になって思うんですよ。
You Tubeで大学の応援団の動画なんて見始めたら、朝までずっと観てしまいますもん(困
大学応援団特有の、あの厳しさと、あの達成感、あの躍動感は、
きっと自分にとって高校野球とは違った財産になった気がします。
まぁ、今さらですけどね。
後悔とは言いませんけど、心残りみたいな感じですかね。
あれほど辞めたかったのに・・・。
でも、おかげさまで、しっかりとキャンパスライフを楽しめましたから、良しとしましょうか(笑
遠い昔の思い出話も、今日はこのへんで。
現在、午前1時30分、これから風呂入って寝ます。
おやすみなさい。
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毎度ありがとうございます!
休日の朝に、コーヒーを飲みながら、昨日のつづきでも。
北海道全域を、函館・札幌・札幌大通り・旭川・釧路の5支店でカバーしているため、
ステカンに記載のフリーダイヤルを廻すと、どこかしらの支店につながるわけです。
函館は市外局番が0138でしたから、同じく市外局番013から始まるエリアすべてが
フリーダイヤル担当エリアだったんです。
札幌の隣り、小樽市も市外局番0134でしたから、ここも函館支店で担当できるエリアなんですね。
つまり、小樽市内にステカンを撒いたら、函館支店の電話が鳴るということなんです。
問題は、高速道路が整備されていなかった当時、小樽までトラックで約4時間くらいかかるってこと。
それでも、未開のエリア小樽でもステカンさえ撒けば、絶対に電話が鳴る自信はありましたから、
敢えて強行発注していたんです。
で、金曜日の夜10時にトラックにステカンを積み込んで、出発したまでは良かったんですけど、
11月上旬の北海道は突然の寒波に襲われて、一寸先も見えないほどの猛吹雪になったんです。
これじゃ、さすがにステカンを電柱に縛るのも無理と判断して、函館にUターンしたんですね。
そして、週明けの月曜日、札幌にいる支社長から電話がありまして・・・
「おう。ステカン、やったんか?」
「えっ、ええ。一応やりました。」
「そうか。それじゃぁ今週は小樽分の新規獲得、期待できるな。よくやった。」
「ええ、ハイ。ありがとうございます。」
完全に引っ込みがつかなくなって、ウソつきました。。∑(; ̄□ ̄A アセアセ
こうなったら、今週末にでもまた小樽行きを敢行して、早いトコ帳尻を合わせておかないと殺されるな・・・
なんて思いながら、撒けずに持ち帰ったステカンの山を見上げながら、次の予定を計画してたんです。
その間も、「小樽からの反応はどうだ?」なんて聞かれると、
「ええ。悪くないですよ。ステカン、正解でしたね。」なんて、
ウソにウソの上塗りをするしかなかったんですよ。
そんな数日後、支社長から一本の電話が・・・。
「テメェ!・・・ウソついてやがったなバカヤロー!!
マジで殺すぞ、コノヤロー!!」
「は・・・はい。スイマセン」
「お前、今からこっちに来い!わかったか。こらっ。」
「は、はい。」
なんで、バレたのかは謎でしたけど、仕方ないですよね。
ま、命まではとられることはありませんでしたけど、こってり絞られました・・・(汗
その半年後・・・函館支店の事務員と札幌支店の支店長が社内恋愛を実らせ、
その結婚式に呼ばれることになろうとは、この時点ではまったく知る由もなかったのでした。
あの事務員、オレのこと売りやがったな・・・。
25歳、冬。
強いものだけが生き残ると、本気で思っていた頃です。
アホですな、完全に。
そんなアホな自分がいて、今の自分があるということです。
今でも、ステカン電柱に縛るの超~早いですよ、きっと(笑
思い出話が長くなりました。
みなさま、素敵な休日をお過ごし下さい。
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毎度ありがとうございます!
もの凄く忙しい金曜日でしたが、なんとか無事に終了して、ようやくさっき帰宅し只今の時刻1:30です。
明日は、朝から知人宅に息子の自転車を貰いに出かけたり、酒田まで日本酒を仕入れに行ったりと、
予定が目白押しなもんで、この時間からすでに煮込みを作りはじめております。
今日は、何時に寝れるかなぁ。。。
そんな夜は、またもや昔話しでも書きますか。
これは、函館でファイナンス会社の支店長をしていた頃の話しです。
表向きは固定電話や携帯電話のレンタル事業を行なっていたわけですけど、
顧客から問い合わせ第一位の媒体は、電柱に縛りつける「捨て看板(通称ステカン)」でした。
ステカンは完全に軽犯罪法違反なんですけど、体育会系の社風の中ではそのステカンを撒くことこそが、
電話を鳴らす最大の営業努力である、という意識が強かったんです。
ですが、その看板すべてを社員自らが深夜にゲリラ的に電柱に縛り付けていくために、
想像以上にハードであることや、数日後に警察からの撤去命令なんかくるものなら、
いろいろと面倒なことになりますから、どの支店でも躊躇する広告費の使い方だったんですよ。
ある日のこと、道内の各支店が新規獲得に苦労している中、我が函館支店はステカン作戦を強行し、
見事なまでの新規契約の獲得に成功したんです。
が、その見返りに軽犯罪法違反になりますので、警察に呼び出されて、こっぴどく叱られた後に
「二度とステカンは撒きません。」という誓約書を書かされたりするんですね。
それでも、その翌月もまたステカン200本を北海道支社に注文し、
支店長会議でも他の支店長から驚愕の眼差しで見られていることは、
当然意識していました。
会議の中で、タウンページ広告やポケットティッシュ、
電車の中吊り広告を注文する支店長が多い中で、
「ウチは、来月もステカン200本でお願いします!」
なんて違法もかえりみずにガンガンステカンで攻めるその営業姿勢は、
社内でも「武闘派軍団」のイメージが自然と出来上がってしまったようで、支社長からも
「お前ら、少しは函館を見習わんかい!」などとお褒めのお言葉を頂くほどだったんですね。
ただ、警察から誓約書まで書かされて、さすがにまたすぐにという訳にもいきませんから、
一応の秘策は自分の中にあったんです。
あっと驚くウルトラCが。
それは、ある年の11月の話しでした。
・・・つづく。 -
毎度ありがとうございます!
自分が登録しているこの「忍者ブログ」も、いつの間にかサーバーの問題で
1日1ブログしか更新できなくなっていたようで、今日は少し前の思い出話でもひとつ。
先日、300系新幹線のラストランのニュースがあったんですけど、
その陰でひっそりと「寝台特急日本海」も廃止されていました。
自分が学生の頃は、大阪⇔青森間を一日二往復してたんですけど、
晩年は一日一往復で函館まで乗り入れていたようです。
大学受験のために、一人で函館に向った際に乗ったのも「日本海」でしたし、
親父と下宿を決めに行った時も、二人で「日本海」に乗って函館に向いました。
確か、鶴岡7:03発だったと思います。
寝台車ながら、B寝台は特急料金のみで青森まで行けたんですよ。
疲れたらそのままベットにゴロンと横になって行けたし、
青森まで乗り換えもなく行けたんで、
凄く便利だったし楽チンだったんです。
11時30分頃に青森駅に着いてホームに下りると海の香りがして、
「あぁ、オレは北に向ってるんだなぁ。」なんて、ひとり哀愁に浸ってました(笑
青森駅のホームで食べる立ち喰いそばが、ハンパなく美味く感じたもんです。
昭和60年当時は、まだ青函連絡船でしたから、ここからさらに4時間の船旅になります。
青森での乗換えが1時間以上ありましたから、函館到着が夕方の5時半頃になるわけです。
まさに、1日がかりでの移動だったし、鶴岡と函館との距離を嫌でも実感させられた
移動時間でもありましたよね。
函館に向う下りは「寝台特急日本海」、その逆に鶴岡に帰省する上りは「特急白鳥」に乗ってました。
夜中に函館を出発し朝の5時頃に青森に着いて、青森出発が6:00ちょうどでした。
その1時間に、またホームで立ち喰いそばを食うという、お決まりの儀式があるわけです(笑
うたた寝しながら、ようやく鶴岡到着10:38分、はっきり覚えています。
その「特急白鳥」も、今はもう走っていません。
ものすごく時間がかかったし腰も痛くなって大変だったんですけど、
その移動時間がモードを切り替えさせてくれたというか、これから過ごす時間を楽しむための、
必要な心の準備時間だったように思うんです。
今は飛行機であっという間に目的地に着きます。
9時に飛行機に乗れば、10時には東京の地に降り立つ時代です。
社会人になり、限られた時間の中で多くの時間を有効に使うには当然かもしれません。
あまりにも、あっという間に東京に着いてしまって、やれ地下鉄だの、やれ乗り換えだの、
さっきまで鶴岡にいた自分との環境の変化に、気持ちがついていけなくなる時もあります。
だからこそ、移動時間だけに12時間もかけれた学生時代の自分がとても懐かしく思えるし、
そんな若かりし自分の時間にも感謝しなくてはなりませんよね。
何気ないあの時間でも、今の自分の糧になってることは間違いありません。
気が付けば、忙しい大人になってしまったなぁ・・・。
いや、大人になるって事はそういうことなんだけど、電車に長時間揺られている頃の自分が懐かしい。
「寝台特急日本海」廃止のニュースが、いろんな思い出とともに懐かしい感情を呼び起こしてくれました。
もう一度、乗ってみたかったな、「寝台特急日本海」・・・
と、煮込みに火をかけながら想う、3月19日。
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毎度ありがとうございます!
今日は、なんとなく昔話をひとつ。
仙台での成り上がりサラリーマン生活にピリオドを打ち、函館に戻ってから選んだ次の仕事は
大手コンビニのFC加盟店のオーナーでした。
オーナーなんて言うとカッコよく聞こえますけど、単なる雇われ店長みたいなもんです。
本部の言うとおりに新商品を発注して、本部の指定する商品しか並べられない。
本部に与えられた制服を着せられ、本部の評価を重要視する。
要するに、本部の言うことには「YES。」という人間であれば、別に誰だっていいわけです。
当時の北海道は、コンビ二業界の勢力分布図の凝縮と言われるほど新店舗出店が目まぐるしく、
交差点の向かいなんて当たり前、時にはすぐ隣に別チェーンが出店するなんていうのも
珍しくありませんでした。
当時はまだ、酒販免許は自由化になっておらず、酒屋さんからの鞍替え店舗のみお酒を販売でき、
酒もタバコも売ってない、いわゆる「ナシ・ナシ。」のコンビニも多かったものです。
それでも、空き地や空きテナントがあれば、とりあえず本部直営店として出店してしまって、
あとからオーナーを募集して経営委託していく方式が一般的だったんですね。
だから、経験・年齢・不問でいいんです。
「すべては、研修で全部教えますから。」ということです。
自分は何でもカタチから入る男ですから、オーナーがアルバイトと同じ制服を着させられて、
たまに巡回に来る本部のSVがスーツ着てバインダー片手にダメだししていく画が、
どうしても納得いかないわけですよ。
お客様から見ても誰が店舗責任者か分かりづらいですしね。
「オレは、あんた方に雇われているわけじゃないだろう。」と。
まぁ、若気のいたり、いわゆる屁理屈ってやつです(笑
で、一切、店で制服を着るのをやめました。
その代わりに、毎日クリーニングしたてのYシャツにネクタイという
清潔感のあるちゃんとした格好で、店に立つことにしたんです。
逆に、本部SVは店舗に巡回の際は制服を着用してから入店してくれ、と。
とにかく、何でも本部にやらされる感がイヤでイヤで(笑
ことごとく反抗的なオーナーでしたね。
フランチャイズ契約なんてどこもそんなもんですけど、
その頃は20代半ばでそんなことが分かるはずもなく・・・。
「こんなの商売じゃねーじゃん。」
今から18年も前の話です。
でも、その経験のおかげであらめて「商売とは何ぞや」、「儲けるとは何ぞや」ということを
深く考えるようになりましたし、「小さくてもいいから自分のやりたいお店をやろう。」と
鶴岡に帰ってきて【やんちゃ】をオープンさせたわけです。
おかげさまで毎日が充実してますし、やりたいことが出来ていることに感謝しないといけません。
こうやってあらためて自分の人生を振り返ってみると、確かにいろんなことやってきましたねぇ。
そのひとつひとつの経験が、今の自分を支えていることは間違いありません。
良いことばかりでもなかったし、人に言えないようなこともたくさんやってきました。
その都度、周りの人たちに救われ助けられ、元気や勇気をもらい立ち上がってこれたからこそ
今の自分があるんです。
ガキの頃からの友人、野球部の仲間・先輩・後輩、函館の仲間達、やんちゃを愛してくださるお客様、
大切な実家の家族、そしてカミさんと子供たち・・・。
仕事やお金じゃなく、人との出会いとつながりが、人生を大きく左右するもんだと思っています。
まとまりなく書き始めましたが、うまくまとまりました。
今日の鶴岡は、天気が良くて気持ちがいいです。
今日も一日、頑張って行きましょう!
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毎度ありがとうございます!
少し長くなりますが、今日は函館時代に大変お世話になった【ニシムラさん】のことを書きます。
自分が大学2年生の春、1年間の下宿生活に別れを告げ、憧れのアパート暮らしを始めました。
ある日、そのアパートの大家さんが所属している草野球チームに助っ人で呼ばれたんですよね。
ニシムラさんは、そのチームの監督兼エースでした。
活きのいい学生が加わったこともあって、その年は結構良いところまで勝ち上がっていったんです。
最終戦が終わり、バット納めの飲み会にも呼ばれて、ニシムラさんに
「イシカワが大学にいる間は、助っ人よろしく頼むよ。」
なんて言われて、そのまま卒業までなんとなく遊びでやってたんです。
自分より14歳上でしたから、自分が19歳の時でニシムラさんが33歳。
一回り以上も年上の方でしたけど、一度も自分のことを「お前」とは呼びませんでした。
大学時代の貧困時代から、よくスナックや回らない寿司屋に連れてってもらったもんです。
大学を卒業して、しばらくしてから函館に戻ってきた自分を
「よく帰ってきたなぁ。これでまたイシカワと一緒に野球やれるなぁ。」
と、またまた飲み会をセッティングしてくれて大歓迎してくれたんですね。
数年が経ち、体の動く若い奴らと本気の草野球がやりたくなって、
自分達でチームを作りたいって相談したときも、
「おれもそっちに入れてくれよ。イシカワ達と一緒にやりたいんだ。」
と、25~26歳のメンバーの中に混じって40歳で移籍してきたんです。
ニシムラさんは当時、函館では老舗の不動産会社に勤めておられて、
総務課の金庫番として個人の接待費枠も持つくらいの地位にいた方でした。
すでに、離婚されていたんですけど、当時中学生になる「コウスケくん」という息子さんも
一緒にグランドに連れてきて、自分達に交じって練習や試合に出てたんですよ。
あることがきっかけで、ニシムラさんが思い切って会社を辞めてしまった後も、
たくさん飲みに連れてってもらいましたし、自宅で手料理も振舞ってもらいました。
手先の器用なニシムラさんは、刺身も握りも鍋もから揚げもすべて自分ひとりで準備して、
当たり前のように「食べろ。食べろ。」とご馳走してくれました。
本当に、お世話になりましたし、そして他の誰よりも一番に可愛がってもらいました。
32歳で函館を離れるまで、ニシムラさんは一度も自分にお金を使わせてはくれませんでした。
鶴岡に戻ってきて2年ほど過ぎた頃、「函館の回転寿司屋で寿司を握っているよ。」と、
電話で話したのを最後に、携帯の番号が変わって繋がらなくなったんです。
それでも、かろうじて年賀状では繋がっていたんですけど、自分も鶴岡で3回も引越ししているうちに
いつの間にか連絡が途切れてしまってたんですね。
ここ10年くらいは、まったく連絡のつかない状態でした。
日曜日に、ふと突然にニシムラさんのことを思い出したらずっと頭から離れず、
何か大切な人との繋がりを失くしてしまったような、もの凄く不義理をしている感覚になったんです。
あれだけお世話になったのに・・・、連絡も取れずに今頃どうしているのかな、と。
その後、急激な腹痛に襲われて、翌朝から6時間も点滴を打ってお店を休んだのは承知の通りです。
そして今日の夕方、仕込みの最中に見覚えのない番号から携帯に電話がかかってきたんです。
「イシカワさん・・・ですか?」
「はい。どちらさまでしょうか?」
「あのー、函館のニシムラの息子のコウスケっていいます。」
「えっ、コウスケくん?ひっ久しぶりだね~どうした?ニシムラさん、元気かぁ?」
なんて話したものの、突然の電話の状況がまったく飲み込めず・・・。
「実は先日の4日に、父が突然倒れてそのまま亡くなりました。」
「えっ・・・うそでしょ?・・・なんで?」
「病気とかじゃなくて、血圧が高かったんで、トイレで倒れて、そのまま・・・」
「なんでよ・・・なんで・・・」
「父と酒飲むと、イシカワは山形で元気に頑張ってるかな~って口癖のように言ってたんですよ。
友人の少なかった父でしたから、イシカワさんと会いたがっていました。」
「・・・そっかぁ。うん、うん、ごめんよ。しかし、コウスケくん、どうやってオレの連絡先分かったの?」
「父の携帯電話のメモリー見てたらイシカワってあったんで、多分、一緒に野球してもらった
あのイシカワさんで間違いないだろうと思って、思い切って掛けてみました。」
「・・・そっかぁ。ありがとうな。ほんとに、連絡くれて、ありがとう。」
「こちらこそ、イシカワさんに連絡とれて良かったです。」
時間になってバイトのハタケが来ても、涙は止まりませんでした。
コウスケくんの話しによると、あれから勤めていた回転寿司屋が倒産したらしく、
そのことをきっかけに携帯の番号を変えて誰にも連絡を取ってなかったそうなんです。
「ああ見えて、結構プライドが高かったから、格好悪いトコ見せたくなかったのかもしれないですね。」
「手紙や年賀状も出してませんでしたから。」なんてコウスケくんは言うけれど・・・、
ニシムラさん・・・水臭いっスよ。
函館を離れるときに「イシカワ、元気でな。なにやってもいいから、たくましく生きろよ。」って
言ってくれたの、ニシムラさんじゃないですか。
やっと連絡がついたと思ったら、亡くなりました、ってことはないでしょうよ。
何ひとつ、恩返しもしていないのに・・・。
すでに、近親者で密葬も終わり、コウスケくんも日曜日には茨城に戻り、
函館のご自宅には誰もいなくなるそうです。
来年、改めて自分の家族を連れて函館にお墓参りに行きます。
必ず、行きますから、ニシムラさん、待ってて下さい。
ニシムラさんに初めて呑ませてもらった青森県「田酒」(西田酒造)の旨さは忘れません。
先日、偶然にも後輩に「田酒」を貰ったときも、ニシムラさんのこと思い出してました。
結構、入手するのが難しい酒だったのに気を使わせないように、
「こんな酒、その辺にいくらでもあるから、遠慮しないでジャンジャン飲め!」
なんて言ってくれましたよね。
また、一緒に飲みたかったです。。。
26歳になっていたコウスケくんとも、今度は連絡が途切れないようにしっかりと番号交換しました。
コウスケくんが携帯を見て連絡くれなかったら、このままずっと知らずに過ごしていたでしょう。
それにしても改めて考えると、みなさんは自分が中学生だったときの父親の友人に、
本人が亡くなったあとに自分の意思で10年ぶりに突然、電話をかけれますか?
ニシムラさん。
コウスケくん、立派に育てましたね。
はっきりと、澄んだ声で、ちゃんと話してくれましたよ。
ニシムラさん。
函館時代には、本当にお世話になりました。
酒を飲むのが好きだったニシムラさんに「今、飲食店をやってます。」なんて話したら、
どれだけ喜んでくれたか、すぐに想像できます。
ニシムラさん。
こんな自分にも守るべき家族ができて、人並みですけどたくましく生きています。
亡くなられた4日の夜から、自分も腹痛で苦しんだのはニシムラさんが警告してくれたんですね。
「イシカワ、身体を大切にしろよ。ちゃんと検査しろよ。」と。
ニシムラさん。
そっちにユニホーム着たショウゴがいるハズですから、なんか旨いもん食わせてあげてくださいね。
ニシムラさん、享年58歳。
謹んで、心からご冥福をお祈りいたします。
大切な人が、また一人旅立ってしまいました。
今夜は眠れそうにありません。合掌。